有権者のおよそ半分、その「民意」のよって“巨大与党”が誕生した。
投票率がどうであれ、国会は数の論理。
今の選挙制度に多くの問題点や瑕疵があろうとも、そして一票の格差が存在しようとも、獲得票の多寡にかかわらず議席が決まるという“おかしさ”があっても。
選挙のたびにここでも書いた。コラムでも何回も書いた。
「いくら君たちが政治を見捨てようとも、政治は君たちを放ってはおかない。君たちを縛り付ける」と。
大方の言い方では、やはり若者の選挙離れ、政治離れがいわれる。投票率の低いのは若者のせいだとされる。
ネット選挙運動を取り入れて若者の関心を呼ぼうとした“愚行”も失敗したようだ。
テレビの街頭インタビューでは「選挙に関心が無い」「政治に興味が無い」「行くのが面倒」などの声が流される。その伝える“意図”がわからないけど。
それを見ていた若者は、同調圧力に流される。投票に行かない。
新聞、テレビの世論調査。選挙情勢調査。それを鵜呑みにする。若者だけには限らない。自公優勢が伝えられていた。それを疑うことなく信用する。
「どうせ自公が勝つに決まっているんじゃないか。ワタシの一票なんてクソの役にも立たない」。そう思い込んでしまった人たちもいる。
ちょっと前までは、世論調査への「逆バネ」が働いたりしていたのだが、今は「同調」だ。
マスコミが投票率の低いことを嘆くのなら、今の“空気”を読み取って、世論調査や、選挙情勢調査なんてやめてしまったほうがいい。
「空気が読めない」という環境に置けば、もっと自分の意志を働かせようとする“刺激”が与えられるかもしれないのだから。
マスコミの調査が当たった。それを自賛してる場合じゃない。マスコミが率先して「同調圧力」をかけているようにも思えてならないから。
イギリスの首相だったブレアという人がこんなことを言っていた。
「最重要課題は三つ。教育・教育・教育」だと。
沖縄のある高校では、授業として「模擬選挙」を実施したという。生徒たちに参院選の候補者の公約などを読ませ、考えさせ、投票させた。
誰に投票するか。家でも親子で会話を交わした。
選挙に興味を持たせ、考えさせた。
投票を終えた高校生たちは皆笑顔だった。
彼らは数年後、本当に選挙権を得た時、たぶん、喜んで選挙に足を運ぶだろう。
普通選挙法が出来、女性の参政権も認められ、ほとんどの国民は選挙で議員を選べるという権利を持っている。獲得した権利は義務だ。
ほとんどの国民が「参政権」を得るまでに、どれだけ多くの人の、それこそ時には血を流し、命を賭しての努力があったのだ。いわば「勝ち取った権利」なのだ。
教育の場で、そんなことがどれだけ教えられているのだろう。教科書の“知識”としてだけ、試験問題に出るからということでした「選挙」というものを教えてはいないだろうか。
教育者は大人である。教育の場で、それは日教組がどうだこうだという次元ではなく、「選挙に行くこと」を教えるべきではないのかと。
「教育とは生徒の心に火を点けること」。
どうせ何をやっても世の中変わらないさ。そんな風潮に支配されている国、ニッポン。
ちょこっと世界に目を向けただけでも、選挙権を得るためにどれだけ多くの民衆が声を上げ、こぶしを突き上げ、時には戦車に狙われながらも「戦っている」という現実。
何でも手に入る“豊かな国”。何でも持っている“豊かな国民”。豊かさゆえに何も考えなくなった人々の群れ・・・。
自分に“不利”な政治が行われた時だけ文句をいい、あとは他人任せの政治参加。
福島県の学校では原発事故以来、教科に原発のことを入れるようになったという。しかし、そこで教えられているのは「科学としての原子力の知識」だけのような。
参院選と時を同じくして、全町避難の富岡町の町長選があった。57票差で現職が敗れた。いろいろ“裏事情”もあっただろう。
現職が敗れる。それは被災者の東電や国、県に対する大いなる不満と憤りが、そうさせたと僕は思っている。上っ面だけの“解説・評論”のようだけど。
そして、参院選の投票率は福島県でも低く、郡山市は全市町村の中でも最低だったという。