参院選挙、マスコミの世論調査によれば、いや、それは大概当たる。自民党圧勝の様子。公明加えて巨大な与党が参院でも出来上がる。
なぜ、去年の衆院選や都議選含めて自民が「圧勝」するのか。自民を支持する人が急増したのか。
あの「どうにもならない」民主党政権への反動。そして「強いリーダー」を求める、いわゆる“空気”、“民意”なるものの為せる業かと。
安倍が本当に強いリーダーなのか。
安倍が今度の選挙戦で語る「政策」はほとんどが経済についてだ。成長についてだ。
原発については触れない。たまに改憲に言及する。衣の下の鎧をちらつかせるように。
しかし、これらにつては“国民”の意志は割れてている。やぶへびにもなりかねない。
その地ならしのように「衆参のねじれを解消させよう」と言う。日本を取り戻そうとも言う。
多くの人が安倍自民党支持だと知ると、そこになびく人たちがいる。もともとそういう国民性があったからかもしれない。
多数意見の中に身を置いているのは“安心感”があるのだ。
衆参の与野党ねじれは解消されるだろう。その後に彼が、彼らが言い出してくるものは・・・。
参院選。それは「数の論理」の帰趨を決めるものになっている。
ちょっと前までの自民党政治を思い返してもらいたい。参院が「政党化」されたあとも、参議院自民党というのは、独自の“路線”を歩んでいた。衆院自民党が最も意を用いたのは参院自民党だったということ。
重宗雄三なんていう参院議長がいたころまではそうだった。
「衆院の勝手にさせない」。
やがて議員としての識見もたいして持ち得ない参院議員が誕生していく。閣僚ポスト三つを与え“懐柔”する。
参院自民党が、衆院に対しての“チェック機能”を果たせば、くだらない与野党ねじれよりも、もっと大きな“抑止力”になるはずだが。
ねじれ・・・。
国と東電と福島と。そこにできた「ねじれ」。どうやって解消するのか。
たぶん、だれも気にしないのだろう。
すでに自国民でありながら、まったく“別物”のようにさえされている福島県民の多く。
ねじれ・・・。まだある。
除染。1ミリシーベルト、20ミリシーベルト。その数字のねじれ。
1ミリと20ミリの意味。多くが明確に語りえない、説明すら出来ない、この数字の「ねじれ」。
1ミリだったら「安全」なのか、20ミリだったら「危険」なのか。何がどのように。思いつく可能性だけで話が行き来している。
原発作業員の被ばく線量だってそうだ。
「実験場」なのだ。ここは。実験の結果を待たないと、ずっと先に明らかになるその結果を待たないと、だれも“正解”は持ち得ない。
だから・・・。すべての“国民”は、その「実験場」に対して、そこからからしか得られない、知りえないことがあるということに対して、「敬意」をもって当たるべきではないかと。
「当たり前などどこにもないじゃない、もう信じない、当たり前など」。
苦悩の日々を送っている福島人の歌壇にあった句。この歌の意味は大きい。
当たり前が無くなった国。当たり前が信じられなくなった国。
ねじれ解消は当たり前なのか。そうではなかったのか・・・。