毎月書いているコラムがある。タウン誌に。もう8年になるだろうか。
僕が書く前の筆者は三谷晃一さんという人。もと地元紙の記者であり、その後、作家、詩人、作詞家となった人。
その人が書いている時のコラムの通しタイトルは「囀声塵語」というものだった。てんせいじんご。もちろん朝日新聞の天声人語をもじったもの。
囀とは鳥のささやきを言う言葉。鳥のささやきのような小さな声、チリのようなどこにでも飛ばされるような言。
洒脱なタイトルだった。政治を世界を世情を縦横無尽に切って捨てていた。しかも優しい口調で。何よりも「天の声」なんて大上段に振りかぶっていないのがいい。
平成8年9月に書かれた塵語。地方の“反乱”という見出しがついている。
新潟県の巻町が原発についての住民投票を行い、建設反対の意思表示をしました。いっぽう沖縄では、米軍基地の存続に対し、県や地権者の頑強な抵抗が続いています。これらを「地方の反乱」と捉えて差し支えはないでしょう。中央権力に対して地方が反抗した事例は、明治初期の西南戦争や地方民権運動以来、この百年、皆無といっていいのです。それだけにことは極めて重大ですが、どういうことか、私の耳にはいわゆる「世論」が聞こえて来ません。新聞やテレビが伝えているのは、マスコミの意見と考えた方が正しいようです。「世論」はいったいどこに行ったのでしょう。
この問題はわが福島県にも深く関わりがあります。福島県は国内有数の原発所在地です。巻町の動きを対岸の火災視していることは出来ません。もちろん県内にも原発反対の声はありますが、これをもって県民の世論と見ることには疑問があります。ここでも県民の「世論」は聞けません。いまや日本は世論無き社会になったのかという思いがしてなりません。それともこの狂燥の時代には、なにをいってもムダと諦めているのでしょうか。
三谷さんが亡くなった後、その欄を書くという、おはちが回って来た。「とてもじゃないが・・・」という思いもあったがお受けすることにした。
囀声塵語は使えない。勝手なタイトルをつけての駄文の毎月。三谷さんのようなやさしい語り口調ではない。粗野な表現も多々。跡を受け継いだ者として、世の中に“警鐘”をという思いだけは変わらずに。
囀声塵語の“語源”である天声人語。もしかしたら三谷さんは見抜いていて我流の当て字をもってきたのか。
この4月以降、まったくつまらない、くだらないコラムになった。筆者が担当者が替わったせいだろうか。
新聞のコラムには重大な使命がある。記事では書かれてないことも、書いてあることでも、それを踏まえて、時には風刺をもってしても、との動きを問い続けることだと。
3・11以降、それはとみにそうあるべきだった。まさに「天の声」に成り代わって・・・。花鳥風月を語る場ではないはずだったのが。
たとえば昨日。「何もする気が起きない時、辞書を読む。調べる必要があっての引くとか当たるとかではなく、ただ興味のおもむくままに読み進む。言葉の海は広く、深いーーー」。辞書に対峙する必要性を説いているのだが、なんで、何もする気が起きない時だと。暇つぶしの道具の辞書かいって。新聞記者に何もする気が起きないなんて許されない。
天声人語は学校の教材にまで使われているという。それにしては内容含め、最近のそれはなんとお粗末なことかと。
昨夜のNHKニュースの世論調査。選挙に向けて一番関心がある事項は「東日本大震災からの復興」とやっていた。二番目が「経済問題」。原発はもっと下位。
で、ニュースで大々的にやっていたのが経済成長。公平を保つようなふりをしながら、結局は「アベノミクス」なるものの礼賛。何人の街頭インタビューなるものを収録したかはわからないが、OAされるのは“意に沿った”ものだけ。
三谷さんのコラムではないけれど、本当の「世論」は聞こえてこない。いや、伝えられていないような。
三谷さんは最初、囀声塵語の前に「ご隠居の」というフリをつけていた。やがて取り去ったが。
こっちは相変わらずの「瘋癲老人日記」にて。