2013年7月26日金曜日

「風立ちぬ」

宮崎駿監督のアニメ、「風立ちぬ」が完成、公開され、多くの観客を集め、興業収入も含め、大ヒットしているという。

最初に、いや、ちょっと前だったけれど、そのアニメ映画の事を知った時、その題名を見た時、やはり浮かんだのはこの言葉。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」。

堀辰雄の本、風立ちぬの冒頭に書かれた一節。若いころ、この本を読んだ。大方は忘れたが、このフレーズだけははっきり記憶している。

「なんか、風が吹いてきたようだ。でも、どんな風であろうと生きなければならない」。“やも”という「強めの終助詞」に打たれた。

思い出して、ここ数日間、「風立ちぬ」というタイトルで書いたエッセーの元原稿を探していた。書いた記憶があったから。ある雑誌に。やっと見つけ出した。
いつ書いていたのか。5年も前。

その一部を敢えて抜き出してみる。手前味噌のようで恐縮だけど。

「風立ちぬ いざ、生きめやも」。

『堀辰雄はその代表作「風立ちぬ」の中のこんな一節を記す。この一行をどう読み取るのか。生と死の狭間を彷徨する少女との会話の中で生まれた言葉。生きようか、生きるまいか。その問いかけに対して、生きようとしなくてはならないと風が教えてくれている。そう読み解いてみたい。この季節に吹く風、立つ風は、例えば、花々がそれを享受しているように、美しく生きることを教えてくれているのだから。

風は吹くのか、舞うのか、立つのかー。
風は読むのか、声を聴くのか、感じるものなのかー。

「風たちぬ」。本の副題とも思われる“いざ生きめやも”は、フランスの詩人 ポール・ヴァレリの詩、海辺の墓地からとったもの。

序曲から始まり、春、風たちぬ、冬と続く物語。最後の章、死のかげの谷。1936年の12月のレクイエム。

「遠くからやっと届いた風が、二つ三つの落葉樹を、他の落葉の上に移している・・・」。

そう、風は、落葉樹にも「いざ、生きめやも」と呼びかけている。』


こんなことを書いていたのだ。宮崎駿と僕は同年代。いや、生まれ年は一緒。同じ時期にこの本を読んでいたのかもしれない。彼も。

アニメ映画の予告編の最後にはこう字幕が記されている。
堀越次郎と堀辰雄に敬意を込めて。と。そして、大きく「生きねば。」と。

アニメ映画と堀辰雄の本とでは、主人公の女性の名前も違う。時代背景も“戦争”の前だ。本には零戦も登場しない。軽井沢のサナトリウム・・・。

しかし、時代の空気は似通っていたのだろう。今と。

どっかで読んだか、見たか。この映画を作った動機を彼はこう語っていたように思う。
「あの、日本が道を間違えてしまった時代の空気と、今の空気が同じように思えてきたから」と。そんな意味の言葉だった。

「生きねば。」 戦争で亡くなった人達だけではない。つい2年半前に我々は多くの亡くなった人達を知った。

生きねば。それは死者からのメッセージだと受け止める。生き残った者に対しての。

「生きる」ということに戸惑っているのかもしれない人々が大勢いる。“東北の現実”を知ることによって、生かされているという思いに昇華させよう。
そう、東北の人たちは、そう思っているに違いない。


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