2013年7月30日火曜日

一括りには出来ない「福島」

佐村河内 守の交響曲第一番「HIROSHIMA」をじっくり聴いた。大げさに言えば、対峙する想いで、向き合う想いで聴いた。
その曲の存在を知って、「つまみ食い」の聴いては来たが、“覚悟”をもって聴いたのは。遅まきながら・・・。

佐村河内は広島生まれの被爆二世。聴覚障害者。

うまく言葉が探せない。「魂を打たれた」としか。そして「泣いた」としか書けない。鐘の音一つもないがしろに出来ないような。

なぜ彼がその交響曲に「HIROSHIMA」と名付けたのか。広島でもなく、ヒロシマでもなく。彼の中にある“情念”が、あえてローマ字を選択させたのだろう。そう勝手に推測する。さまざまな思いが交錯する中で。

福島を「フクシマ」と表記すること、「FUKUSHIMA」と表記することを極端に忌避する人がいる。福島県人に。それは大方、県外から言われることに対してだろうが。

漢字、カタカナ、ローマ字。僕は意図してそれらを使い分ける。すくなくとも、「フクシマ」はこの地を指した表現ではなく、東京電力福島第一発電所の大事故が引き起こした、放射性物質による、さまざまな“汚染”、そう人の内部に発生した、例えば“差別”、そして、それが引き起こした様々な事象・・・。原発事故そのものとでもいえばいいのか。

福島県、それは県と言う一つの行政区画だ。県境が決められたいきさつも含めて。住居表示だ。

福島は広い。会津・中通り・浜通り。大きく分けての三地域。言葉も風習も、食文化も、人の在り様も違う。

原発事故後、言われた距離による様々な違い。郡山は東に端の方でも50キロ圏内に入るかどうか。事故直後も今も、線量は避難させられた川内村の大方よりも高いはず。場所によって多少の違いはあっても。

「汚染マップ」なるものをちゃんと見てほしい。少なくとも猪苗代湖、そう会津地方の隣までは、色が違うのだ。

自主避難した人たちはもちろんいる。でも、大方の人は、この地にいて、ごくごく普通に暮らしている。普通に住んでいる。いくばくかの不安を抱えながらも。解明なんかされっこない低線量被ばくの影響を懸念しながらも。

だから時々言う。「中途半端な被災地」と。

県産の農作物を食べないという人たちもいる。ネットも含めて、あえて県外産の食品を求める。それにどんな農薬が入っていて、食品加工物が入っていようとも。

そして、ここからが問題なのだ。帰還困難区域や避難解除準備区域などの“再編”された地域の人たち。準備区域は4年、困難区域は30年・・・。

困難区域は除染含めて、まったくの手つかず。

“再編”が、その地域に居た人たちを分離させている。分断、対立という大仰な言葉は使いたくないから分離とする。あるいは亀裂とでも言おうか。

見聞きした範囲でだけで言う。ビッグパレット脇にある仮設住宅。おととしの完成時は川内村と富岡町の人たちが住んでいた。隣町。川内の人たちは、いつも国道6号方面に、いわき方面に向かうために、富岡町を通っていた。感覚としては同じ地域だった。

「帰る」「帰れない」。線量が大方判明し、帰還云々が伝えられるようになってから、双方の、同じ敷地内にいる人たちの間に微妙な感情の齟齬が生まれ始めていた。悪しざまに言う言葉を聞かされた。

中途半端な立場の僕が中途半端にそこには介入出来ない・・・。聞いて帰ってくるだけ・・・。帰れる線量の川内の人たちも、多くはまだ帰っていない。富岡の人たちは帰ることをあきらめた人もいる。

双葉郡浪江町。帰れるようになった。帰って事業を再開したり、住み始めた人もいる。でもそれはごくわずか。
隣町の双葉町。帰還困難区域。海沿いの200戸くらいは帰っていいという地域。青い色の地域。すべてを隔てる大方の赤い地域。

双葉町の人たちは、それこそ県内全域に散った、県外各地に散った人達は、どうも浪江を良く言わなくなった。恨み節まで出る時もある。毎日行き来していた隣町同士・・・。

だから言う。「福島」という一括りでは、この地を語れないということを。

すでにして、2年余りという時間が、人の心を切り裂いたということ。時の経過は、いたずらに過ぎ行く時は、人の心を変えてしまうということ。

同じ福島県民でありながら、中途半端な立場にいる僕たちは、そのことをただ憂うるだけしか出来ないというもどかしさ・・・。


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