2013年10月17日木曜日

「想像力」の欠如した国

一昨年、我々は「想定外」という言葉に何度も出会い、それが単なる言い訳に過ぎなかったことを思い知ったはず。その言葉とは「おさらば」した筈だと思っていたが・・・。

一昨年も盛んに言われた政治家の想像力の欠如。こうすればこうなるという洞察力の無さ。既存のマニュアルの中で事足れりとしていたことの罪。

台風26号。伊豆大島の惨事。言葉を失う。

致し方ないことかもしれないが、メディアは結果を持って、原因を探り、責任を追及することに走る。
専門家と言う人たちも、火山灰で出来た地域の土地の脆弱性を言い、避難指示を出さなかった行政を責める。

「今後の教訓にしたい」。その一語で事を収めようとする風潮。「想定外のことは起こり得る」。それが原発事故も含めて、東日本大震災が残した大きな「教訓」だったはずなのに。

地球温暖化、異常気象、自然界には「想定」は通用しない。自然界の動きはもはや人知を超えているのかもしれない。

想像力の問題だ。
自然災害だけではない。想像力を働けせていれば、防げた「事故」は多々見受けられる。

将棋でも囲碁でも、何十手先まで「読む」、つまり想像力を働かせるもの。こうすればこうくる、こうなったらこうする。
もちろん人間相手ではない、自然を相手にして「読み」が出来るかどうかは別物化もしれないが。

想像力を働かしていれば、大島の悲劇は軽減されていたかもしれないということ。

原発事故現場でもそうだ。想像力の欠如が、緊急的措置として、堰の雨水を排出せざるを得ない事態にしている。

懲りていないのだ。

大島の事故を“教訓”にして、各地で「防災計画」の練り直しが行われるだろう。「訓練」の見直しも行われるだろう。
起こりえないことを想定してのものになればいいのだが。

「結局、自分たちの身は自分たちで守るしかない」。そんな思いを抱いた人も多かろう。

またも「報道ヘリコプター」の事が問題視されている。ヘリの音が救助の妨げになるということ。
瓦礫に埋まった人のかすかな息遣いや、呼びかけ。それを聞きとるのにヘリの音は妨げになるということ。

これとて想像力の問題。

メディアが伝えなければ事故の模様はわからない。伝えようとする手段が、被災者の消息を伝えにくくしてもいる。そんなジレンマ。
この問題はかつて阪神淡路大震災の時も言われた。協定で自粛したこともあった。

現場に着いた報道陣は必ずといっていいほど聞く。
「これまでにこんな経験は・・」。経験して無いから被災したのだ。
「いや、はじめてですよ」と答える。そうじゃない。「経験してたらとっくに逃げてる。バカなことを聞くな」。そんな答えをしてもいいのに。

自戒も含めて、「想像力」、考え直してみないと。

“チェルノブイリ”異聞

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