飯舘村出身の子と会った。カメラマンをしている。
「最近、飯舘に帰っているかい」
「あまり帰りません。時々寄ってはみるけど。家の周りは3マイクロあるんです」。
「ご両親は」
「仮設にいるままです。父親は最近こう言ってます。俺らは仮設で死ぬんだと」
それこそ彼は“寂しそうに笑って”言っていた。
飯舘村で生まれ育ち、福島市で仕事につき、今は郡山に居を構えている彼。
妻子は半分“自主避難状態”だとか。
「大変だな」。それ以外に掛ける言葉もなかった。
仮設住宅。仕様は場所や施工業者によって多少の違いがあるが、基本的には2DK。6畳二間のところもあれば、4畳半二間のところも。
一昨年、引っ越しを手伝った、といっても避難所からの移動だけだったが、そこは4畳半二間。
そこには「古いもの」は何も無い。思い出の品や、過去を共にしたものは無い。
あらかじめ用意されていたその部屋にはおよそ不釣り合いのテレビ。冷蔵庫、エアコン、洗濯機。
東電がそろえた家電製品。
そして自分たちで買ってきた、間に合わせの生活必需品。小さいテーブル、座椅子。百均ショップにあるような棚。
それまであったものは何もないという生活。慣れ親しんだものは何も無いという生活。60年も70年も生きてきて・・・。
そこに居ざるをえないということは、それまでの人生を否定されていることなのかもしれない。
仮設では死にたくない。多くの避難者は言う。しかし、現実、その選択肢しかないことも頭のどこかではわかっている。
在宅看護、在宅での看取り。かつて、いや、今もそうか。自分の家で、自分の布団の上で死にたい。病院では嫌だと皆思っていた。
仮設は「自分の家」なのか。
例え、復興住宅が出来たとしよう。入居率はどれくらいになるのだろう。
今の仮設よりは広い家に住める。
しかし、元あったものが何も無い住宅。とてもついの住処とは思えない。
古くからあったものは、ほとんど持ち出せない。持ってこられるのは位牌だけ。
柱のキズも無い、古時計も無い。思い出のアルバムも無い。古い本だって一冊も無い。
雨露しのげるのが、手足を伸ばして寝られるのが、それだけで良しとするべしという事か。
飯舘の家には帰れない。孫たちが遊びにきていた家には帰れない。復興住宅なんて出来っこない。子供たちの世話にはなりたくない・・・。
「仮設で死ぬ」。それしか残されていない人生の終末。
1、600人とも言われる原発事故の関連死。その死がどれだけ無念であったことだろうか。その一人一人が。
友人が音楽仲間の葬儀の葬儀委員長を依頼されて、その挨拶分を「手直し」してくれと持ってきた。
故人は知らない。でも、そこで見知らぬ人と死との関わり合いと持つはめになる。
友人になりきらなくては・・・。
他者の死に“感情移入”をさせる。
手直し、書き上げに集中すること数時間。疲労度は極限に達する。安らかな死なんてあるのか。
極限と向き合って、考える「死」。
飯舘村には、全村避難が決まった直後、潔い死を選択した古武士の精神を具現化したような102歳の人の覚悟の死の出来事もあった。
いつかは誰にでも、どこかで訪れる「死」に想っただけ。ただそれだけ・・・。
2013年10月9日水曜日
“チェルノブイリ”異聞
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