2013年10月8日火曜日

「差別」で思う“在特”と“福島”

在特会、在日特権を許さない市民の会が行っていた、いわゆるヘイトスピーチなる物に対して京都地裁は「差別」と認定し、賠償や禁止命令を出した。

およそ下卑た、野蛮な、ヘイトスピーチなるもの。ほとんどそれに言及したことは無いが、もちろん気になっていた。
国籍とは何か、出自がどうした。

平たく言えば、「朝鮮人は帰れ」みたいなことだろうし、人格を否定する言辞だった。

関東大震災後も、「朝鮮人が攻めてくる」とのデマが流され、それに似たことは終戦直後にもあり、いわゆる「やくざもの」たちの手を借りた銀座警察なるものが存在していた過去を思い出す。

京都地裁は、簡単に言えば、司法が「差別」に対しての判断を示したということか。差別はいけませんよと。

3・11後、福島は放射能問題で、まさに、いわれなき差別に見舞われ続けてきた。今も続いている「差別」「蔑視」。そのほとんどは根拠の無い、デマや誤解に、いや、曲解にも等しいもの。

福島の県民は、直接、その差別に言及しなかったが、東電と時の政府を相手どって裁判を起こした。裁判所は、それを取り上げなかった。
「司法になじまない」といわんばかりに。

福島への「差別」、それは今後も続くだろう。

ヘイトスピーチなるものに共通して見えるのは、「ネットが介在」しているということ。

今更ネットの功罪を云々することではないが。

およそ人類とは「差別」がお好きだ。極端に言えば「人類の歴史は差別の歴史」ともいえる。アメリカの黒人差別、黄色人種差別、ナチスのユダヤ人差別・・・。

今でもある「人種差別」。

沖縄、広島、長崎、水俣・・・。それとて差別の歴史だ。

だいたい、日本人はどこから来たのか。核は誰が持ち込んだのか。

ヘイトスピーチをもってして「言論の自由」を絡める論調がある。言論の自由を持ち出すこととは異次元の問題だと思う。

福島への誹謗中傷、差別発言。それらも「言論の自由」という御旗のもとでは許されのだという論調もある。論調というより、身勝手な「砦」なのだが。

差別をすることによって味わうであろう優越感。それの醜さを人間はずいぶん学んできたはずなのに。

表現の自由と差別は相容れない。

福島にいて差別を考える。何回も書いてきたが、福島と広島、福島と沖縄。

福島県人が風評被害、差別、放射能汚染について、様々考えるチャンスを与えてくれたのかもしれない。この京都地裁の判決は。

県人同士でも、形は多少違っても「差別」の萌芽がある。それにどう対処するかも含めて。

大袈裟かもしれないが、“地獄”を見た人達は、人間の“根源”を見たのかもしれないし。

被差別者は常に「受け身」であらねばならないのかということも含めて。

まさに「空気の研究」の大テーマなんだとも。

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