2014年5月9日金曜日

原発をめぐる「死」と「生」

原発事故関連死、原発事故が故に亡くなった人が、ついに震災直接死者を超えたという。

自死。最初に知ったのは須賀川のキャベツ農家のことだった。ついで知ったのは相馬市の酪農家。“原発さえなければ”という遺言を牧舎の壁に書いて・・・。
102歳の人は「長く生き過ぎた」と書いてみずから命を絶った。50代の主婦も一時帰宅して住み慣れた家の庭で灯油を・・・。



とにかく。原発事故は多くの死をもたらしたのだ。

それらの「死」とは何だったのだ。

原発再稼働。それは生きている人たちの生活を”豊かにする“ためのことだ。
でも、その豊かさって本当に必要なものなのだろうか。

いまさらながらの、そして永遠の疑問。

すべてに於いて生きる者が優先されるということ。たしかにそうだ。
よりよく生きるためのこの世の中は存在するのだから。

そうするとあの原発関連死の人たちは“無駄死に”っていうことか。

弱かったから死んだのか。生きるっていうことは弱いものを見捨てることなのか。

原発事故現場。そこでも仕事中に亡くなった人がいる。遠因は過酷な労働環境だ。

被ばく線量との“闘い”の中で、結局は人海戦術しかとりえない収拾作業。


「国が前面に出る」と言った。全面なのか前面なのか。「ゼンメン」の字がわからない。

「いちえふ」を抱えている限り、福島は「フクシマ」であり続ける。

人口減がまた統計数字として出された。40年代には「消滅」する市町村もあるという。

福島県だった人口減は甚だしいはず。141万人の人口県になるという。すでにして事実上”消滅“した町村もある。

廃炉まで40年かかるとされる。廃炉作業にかかわる作業員は、この人口減の中で確保出来るのか。

ブラック企業だけではない。ホワイトアウトした原発の中で過労死は必ず起きる。

20数年後を見越した政治。それは、再稼働論議、再稼働価値観とは真逆にあるはず。
減った人口を電力が補うとでもいうのか。

「燕さえ 帰る巣のある仮の宿」

双葉町の老人が詠んだ句だ。仮の宿で、仮設で、また亡くなった人があったときのう聞いた・・・。

雨のせいも、気圧のせいもあろう。なぜか今日、ものすごく頭が痛いのだ。締め付けられるように。

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