「海を見る自由」という言葉について以前、書いたかもしれない。重複承知であらためて書く。
その言葉は2011年3月15日。東日本大震災の影響で卒業式を取りやめた埼玉県にある立教新座高校の校長が卒業生に託したメッセージだ。
数行抜粋する
//大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。
現実を直視する自由だと言い換えてもいい//
大学に行き学ぶ。その学ぶということの意味を問いかけたメッセージだ。
そのメッセージの最後には聖書の言葉が書き添えられている。
「真理はあなたたちを自由にする」ヨハネによる福音書8:32と。
この「真理はあなたを自由にする」。これは、国会図書館に掲げてある言葉だ。学問の追及によって真理を知り、それによって私たちが自由にされるという願いを込められていると聞く。もちろん聖書の“真意”とはいささか違ってはいるが。
塾で「民主主義とは何か」ということを話し合った。「自由」という“キーワード”が何人かから出された。
そして一人が聞いた。「自由の反対ってなんでしょうか」と。即座に答えられなかった・・・。
日本国憲法第21条。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と明記されている。
この自由とは次項に“検閲”という文字がある通り、国に、国家に、権力者に、為政者に対して、批判的言論を唱えても、その自由は保障されているという“狭義”に捉えたい。
何でも言っていい、書いていい、それも自由だということではないと思う。
少なくとも、憲法が保障している基本的人権、生存権を阻害することを許すものではないと思う。
しかし、これをもって、一部の日本人は「言論の自由」を声高に言い、それを権利だと主張する。いわば、皮肉まじりに言えば「表現の自由」の国民的解釈変更とでも言っておこうか。
何を言っても自由だ、書くのも言うのも自由だと言い募る。
なぜこんなことを書くのか。あれから3年以上が経っても、「福島」に対するデマ・嘘・虚偽の風評が後を絶たない。
「福島には人は住めない」「福島の食べ物は食べられない」。この種の言辞。
それをばらまいているのが学者であり、識者という人達。その「肩書」に惑わされ、信じ込み、そう信じ込み、言い募る人達。
まさしく「福島県人」に対する基本的人権の侵害であり、生存権の否定であり、民主主義の理念に背く行為であるのに。
自由のはき違い。
民主主義を言う人が、民主主義の理念を否定している。その矛盾に気づいていない。
海を見る自由。立ち止まって考える自由。国会図書館にある真理と言う言葉。
この「自由」。学生だけのものにするにはもったいない。日本人が考えるべきだと。福島県人も含めて。
福島県産のコメや野菜、農作物。どこよりも「安全」だ。厳格な検査を経て出荷されているのだから。
検査、検査と言っていた人。そんな人に限って検査結果は信じられないともいう。ND,不検出ではだめなんだそうな。まったくのゼロベクレルでないと。
ばかばかしさと通り越している。全くのゼロベクレルの食品なんて世界中どこを探してもないのだから。
蛇足。横綱白鳳に福島県産のコメが優勝の副賞として贈られた。それを「ニュース」であるかの如く地元紙が書く。そんなに話題になることなのか。
福島県産のコメを贈る。そんなに「特別なこと」なのだろうか。
「自由の反対はなんですか」と聞いた塾生にはこう答えようと思っている。
「社会」と「空気」だと。たぶん、その子はまた悩む。悩んだ結果、考える人に成長していくはず。
2014年5月27日火曜日
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