2014年5月26日月曜日

日本人よどこへ行く~袋小路~

これは日本だけのことではない。世界というか地球規模で、さまざまなことが「袋小路」に入り、出口が見つけられなくなっている。解決の手段を誰も持たないという状況なのではないかと。

ウクライナ、タイ、シリア、もはや当事者たちは解決の道筋を描けないのでは。
南スーダン、まさに地獄の様相だとも。飢えて病んで死んでいく子供たちを救う手立ては、根本的手立ては無い。

「個」の世界で、自分の周りを日常を見るか、「全体」の視点で見るか。


例えば核の廃棄物。もう人類は「お手上げ状態」になっているはず。それがわかっていながらも原発は動き、廃棄物が多量に出ている。

日本にだって再処理を依頼した外国から、最後の廃棄物は戻されてくる。

今の、当面のエネルギーを確保し、経済成長を確保したとしても、遠くない将来、核に廃棄物でにっちもさっちもいかなくなる。

だから六ヶ所村再処理工場っていう話になるのか。再処理が出来たとして、核燃料サイクルが出来たとしたも、そこには「核のゴミ」は“永久保存”されることになる。それの“健全性”を神頼みで信じる以外に道は無く・・・。

「3・11」。福島の原発事故。それが再認識させてくれた「廃棄物」の問題だけど。

宮城県の三つの町が「指定廃棄物」の仮置き場を拒否している。それは宮城県内で出たもの。福島から風が運んだ結果であろうが。
「厄介なものは身近に置きたくない」。それを簡単に地域エゴイズムと言ってしまうのにはいささかためらいもある。

2011年の今頃だったろうか。郡山市の薫小学校の線量が高かった。校庭の表土を剥ぎ、それを市内のゴミ焼却場で処分しようとした。
焼却場付近の“住民”が持ち込み反対を言った。結果、剥がれた表土は校庭の脇に「保管」された。ブルーシートで覆われたままで。
「子どもを殺す気か」。運動家が写真を撮ってネットに上げた。
同じ市民であっても、汚いものはいらないってことの実際にあった一例。

中間貯蔵施設が出来ないと、県内にある仮置き場の「汚染物質」はそのままだ。
あちこちに置かれた黒いフレコンバッグの光景。

大熊、双葉に中間貯蔵施設は出来上がるだろう。今、住民説明会が行われている最中だ。

30年間。国は最終処分場を県外にと“約束”している。そんな場所が県外の、この日本列島の中にあるのか。それこそ国有地に無人島でもあれば別だが。

中間貯蔵、すなわち最終処分場。それがわかっているから地元の反対が絶えない。県内の他地域では、そのことを責める。
出口が見えないんだよ。このままいけば袋小路なのだ。

仮置き場でもさまざま軋轢があった。すすんで土地を提供した人もいた。稀有な人だ。多くは反対だと言っていた。

誰しも、身近に汚いものは置きたくない。そうするためには“綺麗ごと”をいうしかない。

グリーン・パラドックスという言葉があるそうだ。
ある国は原発を無くそうとして自然エネルギー、再生可能エネルギーに舵を切った。電気代は高くなった。その国の企業、工場は、とてもじゃないがその電気代では生産の採算がとれない。隣に工場を移転する。電気代が安いから。原発で電気を作っているから。原発は増設される。

そこからは多量の核のゴミが出される。核のゴミは、自国で処理するのが国際的な取り決めだ。自国では処理できない。保管できない。国際的な処分場計画というのが持ち上がる。

厳重に密閉して海底に埋めるという話も出てくる。海はどうなるのか・・・。だれもわからない。

「人類の英知が、それを解決してくれるのを期待する以外にない」と科学者とて言う。

核は原発は、行先は袋小路。出口の見えない袋小路。

袋小路からどうやって抜け出るか。来た道を引き返す以外にないはず。

再稼働騒ぎに揺れているこの国。「ゴミ」を処理できない近未来のことはあまり論じられない。まだ、迷い道の途上にあるということなのだろうか。

そして透けて見える人間の「エゴイズム」。

“チェルノブイリ”異聞

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