2014年5月17日土曜日

「自衛」ということ

昨日、安部を“情念の政治」と書いた。
人間の情念に訴える手法を時折使う。

それは一昨日の記者会見場。大きなパネル。集団的自衛権行使の具体例として。
「紛争国から逃れようとしているお父さんやお母さん、おじいさんやおばあさん、子ども達。彼らが乗る米国の船を今私たちは守ることができない」。そんなことでいいのですか皆さん!。といった具合に。

おじいさんやおばあさん、こども。それをこの集団的自衛権論争の中に持ち込んでくる。もちろん「あり得る想定」ではあるが、憲法の議論の中で持ち出されるおじいさん、おばあさん、こども。

賢(あざ)とさとも取れる。おじいさん、おばあさん、子ども達。狭隘な考えかもしれないが、いま、福島で悲鳴を上げているのはその人たちなのだ。

その人たちを助ける具体的行動がとられているのかということ。

憲法が定めている生存権や、健康で文化的最低限の生活が保障されていないということ。

安部会見のニュースが流れている時、ベトナムでは“暴動”が起きていた。
トルコでは炭鉱事故で多くの犠牲者が出ていた。トルコの首相は窮地に立たされていた。

トルコにまつわる話がオーバーラップしてきた。エルトールル号事件のことだ。
明治の時代。トルコの軍艦が和歌山の串本沖で台風で座礁した。串本の住民は、自らをいとわず乗組員を助けた。明治天皇も無事に帰還させるようにとの配慮を見せた。

助けられたことをトルコでは「歴史教科書」の中に記述している。恩を忘れるなと。イラン・イラク戦争時、フセインは24時間以内にバクダット空港の上空を通過するすべての航空機を打ち墜とすとした。

空港に集結した在留邦人を助けたのは、日本に運んだのはトルコ航空機だった。自国民は陸路でも帰れるとして。

もし、同じような事態が起きたら、そこには集団的自衛権が発動されて、武装した自衛隊機が救出に向かうのかどうかということ。イランとイラクの戦争。アメリカ艦船は攻撃対象になっていない・・・。

そんなことを思ってしまった。

今朝のテレビで大阪のおばちゃんがおもろいことを言っていた。「集団的自衛権って言葉が嫌やねん。集団自決を思い出す」と。なんと、石破が答えていた。「たしかに言葉が悪いかもしれない。正当防衛と言い換えた方がいいかもしれせんね」と。

大阪のおばちゃん、やるやないか、鋭いぜ。なまじの国会議員よりも。

邦人救出の米艦船のを守るために自衛隊が出動する。彼らにも親もいれば子もいる。戦争に巻き込まれるかもしれない。家族はどう思うのだろう。

原発事故後、自衛隊の活動は最悪の危機を救ったともいえる。出動する隊員の家族は皆、不安だったという・・・。

そうか、集団的自衛権とは正当防衛ということなのか。正当防衛論、それは個別的自衛権で「担保」されているとも思うのだけど。

そして、福島県民は「軍事」とは全く無関係な中で「自衛」に腐心している。自分を守る、家族を守る、いや突き詰めていけば国を守るという“原発戦争”の中の自衛・・・。自らの生活を守るという自衛・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...