2015年3月31日火曜日

疑問だらけの「民主主義」

民主主義とは何か、どういうことか。あらためて問われると多くの人は即座に答えることは難しいだろう。

民主主義と言う言葉はあっても、その内容、理念、在り方・・・あまり考えてこなかったのではないかとも思う。

辞書にはこうある。まるで学校の教科書にあるような文言。
「権力は人民に由来し、権力を人民が行使するという考えとその政治形態」。

我々は民主主義国家に暮らしていると誰もが思っている。でも、その“正体”は複雑怪奇だ。

誰もが民主主義であることを疑わないのに、その考え方が違っているということ。

塾で「民主主義とは何か」という話し合いをしたことがある。
民主主義と聞いて何を思い浮かべるかと10数名に聞いた。瞬時の問いかけだったが、各人が思い思いの言葉を語った。

自由という人もいた。平等だという人もいた。勝ち取ったものという人もいた。
多様な価値観が許される社会という人もいたと記憶している。

普段、あまり考えたことのない、当たり前の、ありきたりの事をあらためて考えてみる。議論する。必要なことだったのではと。

その時、解答というか、民主主義とはこういうことだ、という見方は示さなかった。いや、示せなかったのだ。現実、それがあまりにもないがしろにされていると痛切に感じたいたからだ。

民主主義とはその国民に対して、あまねく公平であり平等であるべきことだと思う。それが権利だとかどうだとかを問わず。

民主主義は共有されるべきものだと思う。その“恩恵”を受けることに差があってはいけないことだと思う。

何を言いたいか。沖縄だ。そして福島だ。そこには民主主義が適用されていないように思えるからだ。

沖縄の問題、辺野古問題を始め米軍基地の問題。米軍基地を「共有」しようとする本土の人はいない。そこに押し付けたまま「オキナワ」を論じる。
ある意味卑怯な振る舞いだ。

原発事故による被害。それとても「共有」されるべきものであるはずなのに、「福島」に閉じ込める。
最終処分場など、県外に持って行けるはずは無い。国は、その民主主義の行動を怠るであろう。

だから問うのだ。この国にとっての「民主主義」とは何かということを。

議会制民主主義という言葉がある。制度がある。それが果たして機能していることなのだろうか。

多数決の論理。それは議会制民主主義の制度としての基本だ。しかし、その前段にある、選挙という、国民の参政権の在り方が、果たして公平、平等なのか。

多くの死に票を生む制度が民主主義に合致しているのか。

あげく、政界では「党内民主主義」という言葉もある。それは「議論を尽くそう」ということだ。結果に不満が残ろうとも、合意を見るために、それぞれが力を尽くしたという点で、ありうる形態だ。

言葉を変えれば、民主主義とは徹底した話し合いということにもなる。

安倍は自衛隊を「わが軍」と言った。自衛隊は軍ではない。改憲されない限りは。
それを追及されると、国際法の概念を持ち出すなどの手練手管を使い、わが軍発言を正当化しようとはかる。
論議がかみ合わなくなってくると「この言葉を巡って(不毛)な議論が続くなら、他の法案審議に影響するから、その言葉は使いません」とくる。

言葉は使わないと言った。でも認識は変えていない。議論を尽くそうとしない。

これが国会と言う場の中にある民主主義の、議会制民主主義の実態だ。

なにやら得体のしれない「民主主義」。民主主義という言葉が連日、どこかで言われている。でも、それが実体として何を指しているのか、その理念とはなにかということはさっぱりわからない。

ただ「民主主義」という言葉にだけ酔っているのではないかとも。

民主主義をめぐる戸惑いだ。

2015年3月30日月曜日

92歳から送られてきた「歌」

東京の広尾に住む90代のご夫婦と交流がある。交流と言ってもそれは家人のことではあるが。
それも顔を合わせたのは数回らしい。電話と手紙の交流だ。
きっかけは初台当時の“犬”を介してのことだ。

92歳のその御婦人、その人のお姉さんが初台に住んでいて、その方が犬を飼っていて、そのご縁から始まり。その方が亡くなってから、妹さんである92歳と“濃密”になった交流とか。

その姉妹の一番下の妹さんは、劇団四季の有名な女優さんだった。名前を藤野節子という。

その御婦人がたは満州に生まれ育った。幼少時、満州事変を体験し、太平洋戦争が始まった頃に帰国した。親が満鉄に勤めていた人だという。

帰国後、寄宿舎のある宝塚歌劇団に入った。退団後は電通に勤めていたという。

いわば、彼女の「ふるさと」は満州だ。そして、退職後は中国残留孤児を支援する活動に姉妹してかかわっていたという。
ご夫婦とも癌に罹患しており、抗がん剤治療を受けていると言う。副作用で口内炎を発症し、手先が指がひび割れており、台所仕事もままならないと。


昨日、その人から手紙が来ていた。便箋は包装紙を使っての手作り。
一筆書きの便箋数枚に、病状の進行具合や現況が記されていた。

「もうこんな字しか書けなくなりした」とも。

その便箋には、なぜか五線譜が書かれていた。定規をつかって五線を引き、しっかりした音符だ。4小節。楽譜の下に歌詞が記してある。

♪ここは、お国の何百里、離れて遠き満州の・・・♪と。

僕のよく知っている歌だ。なぜか軍歌はほとんどを知っているし、歌える。その中でも一番気になっている歌。子供の頃、親が教えてくれたのだろうと思うが、物語になっているその長い歌の全部をノートに書き留めていた。
こんな歌詞だ。なんでこんな記憶を呼びさまさせてくれたのだろうと思いながら、思い出すままに記す。

ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
  赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下
思えば悲し昨日まで 真っ先駆けて突進し
  敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか
ああ戦いの最中に 隣に居った我が友が
  にわかにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄りて
軍律厳しい中なれど これが見捨てておかりょうか
  しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾の中
折から起こる吶喊(とっかん)に 友はようよう顔上げて
  御国のためだかまわずに 遅れてくれなと目に涙
あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
  それじゃ行くよと別れたが 永の別れとなったのか
戦い済んで日が暮れて 探しに戻る心では
  どうか生きていてくれと 物など言えと願うたに
虚しく冷えた魂は 国へ帰るポケットに
  時計ばかりがコチコチと 動いているのも情けなや
思えば去年船出して 御国が見えずなった時
  玄界灘に手を握り 名を名乗ったが始めにて
それから後は一本の 煙草も二人分けてのみ
  着いた手紙も見せ合うて 身の上話繰り返し
肩を抱いては口癖に どうせ命はないものよ
  死んだら骨を頼むぞと 言い交わしたる二人仲
思いもよらず我一人 不思議に命永らえて
  赤い夕陽の満州に 友の塚穴掘ろうとは
隈なく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって
  友の最期をこまごまと 親御へ送るこの手紙
筆の運びは拙いが 行燈の陰で親たちの
  読まるる心思いやり 思わず落とすひとしずく


日露戦争時に作られた歌だという。それはまさに軍歌ではなく反戦歌だったと思っている。「異国の丘」という戦後流行した歌もそうだったと捉えている。

なぜ、今、この時代にその92歳が万年筆でその歌を書いて送って来たか。

時折、電話で「戦争はもう懲り懲りだ」と言っていたという。
幼少時の記憶としての、「ふるさと」を懐かしんでの満州か、それとも今の時代の空気を戦争経験者として感じて書き送ってきたのか。それはわからない。

僕にとっては話に聞くだけの人であり、顔も見知らぬ人だが、震えるような字での4小節の楽譜にうたれた・・・。

その姉妹は宝塚で原爆を体験している。

今朝の新聞の投稿欄にあった一首。
“「ひろしまのピカ」のとなりに「ふくしまからきた子」が並ぶ児童図書室”

満蒙開拓団として彼の地にわたった双葉郡の人は多いと聞く。貧しかったが故にと。

2015年3月29日日曜日

「アンダーコントロール」と「アンダーグラウンド」

安倍晋三という政治家は、ある意味「卑怯な政治家」の範疇にはいるかもしれない。

三原じゅん子を使って、その言葉の意味も歴史もしらない女性議員をつかって「八紘一宇」と言わせてみた。
自らは「我が軍は」と言ってのけた。

安倍政権のやり方、それは「ボールを投げかける」というようなものではない、刺激的な言葉を使って、人々に「免疫」を植えつけてしまうということなのだろうか。

世間の反応を探ろうとしているのだ。真っ向勝負ではない。搦め手作戦だ。

安倍は「無知の人」ではないと思う。無知なら、さまざまな考えに耳を貸す度量がある。無知で無い人は、自らの知に凝り固まっていて、他言を容認したり、まともに議論する度量を持たない。

国会審議、彼にとっては単なる「消化義務」程度の物なんだろうとも。

だから「我が軍」発言も、独特の論法ですり替える。

安倍の嘘の一つである「アンダーコントロール」。普通の人は、アンダーコントロールとは「完全に制御された状態」だと認識する。

それとても東京オリンピックを招致するための“方便”だった。もっとも、それを信じた人たちも悪いのだが。

安倍の発言の“真意”はこういうことだったようだ。
「汚染水問題も含めて、事実を掌握し対応している」ということなのだ。

そしてきちんと対応できていないこともわかっている。対応することが難しいということもわかっている。

でも、その実情は“隠す”ということなのだ。

言葉の意味を変えたり、解釈を勝手に変えたり、論点をずらしたり。そして時には恫喝や懐柔の手法を使う。

なぜだかはわからないが、その安倍の前でメディアは沈黙に等しい状態に陥っている。安倍の「土俵」の中での報道に終始している。

メディアは安倍の「コントロール下」にある。

“報道ステーション問題”で古賀が引用したマハトマ・ガンジーの言葉。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためだけではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」。

用意されていた言葉なのかどうかはわからないが、メディア人に向けてだけではなく、多くの人に向けてのメッセージだったとも思えた。

だって、我々は「変わること」を“拒否”したのだから。

世界によって変えられることを「拒否」する人がいてもいいのに。

同じ古賀姓だが、自民党の古賀がこう言っていた。安全保障法制についてだが。

「中身を見てみると、集団的自衛権の議論から大きく踏み越している。とんでもない法制化が進められようとしている」。
「自民党の先生方、何か言ってくれよ。なぜ黙っているんだ。ハト派じゃなく良質な保守派がいっぱいいるはずだ。政権与党の先生方にしっかり考えて発信してもらいたい。それが大きな責任ではないか」と。

アンダーグラウンド。村上春樹がオウム事件、地下鉄サリン事件を題材にして書いた大作だ。
その書かねばならないという動機は「私は何をすればいいのか」という自問だと言っている。

変わるゆく日本をより深く知るための手立てだったともいう。

漠然とした言い方になるが、この国にはアンダーグラウンドに書かれた「くろやみ」クンがいる。

そしてアンダーコントロールされていると詐弁されている「福島原発」は、意識として、まさに「アンダーグラウンド」であり、「闇」が“支配”しているということ。

2015年3月28日土曜日

「出口論」で事が進んで行く国

集団的自衛権を巡る自公の協議。結局あれは何だったのだ。安保法制論議とはなんだったのだ。

要するに「安倍」の言い分を取り繕うための議論だったのではないかと。

公明党とは第二自民党だ。そんな思いがひしひしとする。自民党の補完政党としてある公明党だと。
政権与党という蜜の味を一回吸ったら、もうそれを忘れられない。美味しさを。
そんなことを言えば、彼らは「とんでもない」と否定するだろうが。

しかし、今の公明党の存在は、在り方は安倍自民にとっては最強の見方なのだ。
一党支配には、まま“批判”が出るおそれがある。
二党でやれば・・・。

野党と称するところにも事安保法制、その延長線上にある改憲では安倍に共感する人たちもいる。まさに「みんなで渡れば・・・」の世界なのだとも。

野党であった時の公明党。中道勢力としてあった公明党。そんな時代もあったのだけれど。それとて「今は昔」の“思い出”か。

多分に自民化する公明。それは、政治手法を結党時から自民党に学んできたからかもしれない。

「歯止め」なんてどこか期待を持たせて、やったことは永田町の論理として存在する「足して二で割る」「相手の顔を立てる」という手練手管の話しだけ。

どうやったら集団的自衛権を行使できるのかという「出口論」。黒を白といいくるめる“偽弁証法”。

憲法とは。憲法の理念とは。平和主義とは。それを徹底的に論じてからの改憲論議であるはず。
それが皆無だったとは言わない。しかし、初めに改憲ありきであり、いきなりそれを持ちだすのには無理がある。反発もある。

とにかく「慣らさせること」「慣れさせること」。

くどくは言うまい。言葉を字句をもてあそんでの安保法制論議。歯止めどころでは無い。安倍思想にお墨付きを与えてしまったのような感ありだ。

出口論をいくらまとめたからと言ってもことの本質は「まとまって」いない。

平和とは何か。戦争とは何か。憲法とは何か。その根源は。入り口論はまさに「たなざらし」のままなのだ。

初めに改憲ありき。その安倍思想を是認しての出口論なのだ。
平たくいえば「言い訳作り」なのだ。

公明党の支持母体はまだ創価学会のはず。学会員の諸氏よ。学会創設者の牧口常三郎の「思想」を「闘争」を思い出せよ。知らないのなら「学べよ」。

同じような構図が「原発」にもある。

原発も結局は、今、話題になり、皆がそれにばかり気を取られているのは「出口論」。
事故の収束のための出口論だ。
少なくとも政治家や、官僚がうつつを抜かしていることは。

なぜ原発が出来たか、なぜ原発を必要としたか。原発とはそもそもなんだったのか。

反省と責任をもともなった議論、それが原発の「入り口論」。その入り口論は、なかったわけでもない。しかし、あっと言う間に影を潜めた。

「そんなことを言っている場合じゃない」という、目先の事だけに捉われて。

5年目、不透明な部分は多く存在する。どうにもならないこともあるかもしれない。

しかし、それが、いささかでも進み始めているというなら、あらためて原発の「入り口論」に意を用いるべきではないのか。

論点はいくらでもある。自然と原発の問題もある。原発の経済的コストの整合性の問題もある。

福島で起きたことを「結果論」と捉えてもいい。専門家も、一市民もさまざま学んだはずだ。

それを生かすことが「入り口論」に立ち返ることが出来る唯一の術だ。

きょう、あすのことだけ考える出口論。将来を見据えた、それがこの国にとって、いや人類にとって必要なものなのかどうかという、「青臭い入り口論」に立ち戻るべき時が5年と言う歳月なのだとも思う。

入り口論に立ち戻れない事。それをも「思考停止」と言うのだ。

2015年3月27日金曜日

「9兆円の“ロス”」で思う事。

東電への政府の財政支援、総額は9兆円に上ると言う。

仕組みはどうであろうと、東電の原発事故の「処理」には、それだけの金がかかるということだ。それも今現在の“計算”に過ぎない。

汚染水処理や廃炉対策だけではない。それにはすでに東電と国が5,900億円支出している。

9兆円は損害賠償や除染費用の最大限の数字。東電に肩代わりする金額。

9兆円とはどういう額なのだろう。気の遠くなるような。

その大部分は東電や他の電力会社が長期にわたって返済するとされているが、目論見通りに行っても、最低18年はかかると言う。

国は“借金”でそのカネをまかなっているという。借金には利息が伴う。金利は国が払うことになる。

9兆円を稼ぐのに何年かかるのか。何年原発を動かせばいいにか。電力料金は・・・。利息は税金で払うと言うことか。

原発一基作るのに何億のカネがかかるのか。その原発から生み出されて“エネルギー”がどれだけの経済効果をもたらすのか。

いったん事故があればかかる費用は9兆円。

それをして「国富」の損失、流出っていうのじゃないかな。

どう考えても素人考えでは「間尺に合わない」ことだと思うのだけど。

まったく「経済合理性」に合っていないと思うのだけど。

あきらかに「経済」を阻害する“ロス”なのだ。
沖縄の問題も似ている構図だ。沖縄の経済は、基地を巡っての補助金によるところが大きい。
振興予算という名の。



沖縄は補助金で財政が維持される、基地があるから雇用があるとされる。
それは、いつの間にか作られていた神話なのかもしれない。

かって電源三法による交付金や、東電の寄付金で潤っていた町村。それに馴らされていた地元民。“神話”が作られていたという点では同項だ。



本土の人は「基地が無くなったら沖縄の経済は成り立たない」と言う。沖縄にもそういう人達もいる。

もともとは自民党であり保守であった翁長知事。どこかの時点でその「おかしさ」に気づいたのかもしれない。考えを変えた。

「基地は沖縄経済の最大の阻害要因だ」と。

基地による収入の“30倍”にあたるの“ロス”があるとも言はれている。

翁長を支持した沖縄の財界人も気づき始めていた。そのことに。

今の沖縄。その天然の、自然の美が、環境が大きな「資産価値」を持っていることに気付いた。
それを有効活用しての観光産業。そこからは雇用も生まれる。

高級リゾートホテルなどはその典型だ。もともとそこは基地があった場所。
米軍施設があった場所。一等地だったのだ。
返還された旧基地、施設後。それを有効利用しているということ。

地元に及ぼす経済波及効果は、「基地」から得られる収入の30倍にもなるという。

辺野古の海は景観は、最高のリゾート施設になりうる要素を持っている。

沖縄の人たちはそのことに気づきはじめたのだ。

米軍基地の73%を沖縄に封じ込めておいて、それぞれの本土の都市が成長を遂げていることへの違和感をあらためて認識し始めたのだ。

「沖縄大観光地化計画」。観光だけに依存する経済。それには多少の違和感と危惧も持つ。しかし、そこを訪れた観光客を、どうやって沖縄の悲劇の場に誘導するか。沖縄の実相を見せられるかは沖縄の人の知恵如何にかっかっているとも思う。

沖縄の70年の歴史。それを知らしめることにも役立つのではとも。

それは「易しい経済学」でもあると思うのだけど。沖縄も原発も。

2015年3月26日木曜日

「バベルの塔」としての原発

ローマ・カトリックのフランシスコ法王が過日、原発事故について言及した。

バチカンで日本のカトリック司教団と会談した際、福島の原発事故などを挙げ、
旧約聖書にある「バベルの塔」の話しになぞらえ、“人間の思い上がりが文明の破壊を招く”と警鐘を鳴らしたという。

人間が思い上がり、恣意的な動機で自分に都合のいい社会を作ってしまう。自分のためになると思っていたことが、自分を破壊することになってる」とも。

カトリック教徒は世界で12億人といわれている。世界の人口の17,5%を占めるとされている。
ローマ法王の存在は、それがカトリック信者だけではなくとも“影響力”を持っているはず。

「バベルの塔」、旧約聖書の創世記の登場する話である。

こんな話だ。

ノアの洪水の後、人間はみな、同じ言葉を話していた。

人間は石の代わりにレンガをつくり、漆喰の代わりにアスファルトを手に入れた。こうした技術の進歩は人間を傲慢にしていった。天まで届く塔のある町を建てて、有名になろうとしたのである。

神は、人間の高慢な企てを知り、心配し、怒った。そして人間の言葉を混乱させた。

今日、世界中に多様な言葉が存在するのは、バベル、すなわち訳せば「混乱」の塔を建てようとした人間の傲慢を、神が裁いた結果なのである。

言葉の問題もあるが、高い塔を建て、神の高みに近づこうとした“人間の傲慢さ”を戒めたものと、自己流に解釈してきた。

「3・11」後、時たまこのバベルの塔になぞらえてここに書いたこともある。

そして、あの後完成した東京スカイツリーを「バブルの塔」とも揶揄した。

ローマ法王のこのメッセージは伏線として、日本のカトリック教会の動きがある。

日本での最高責任者である16人の司教団が、戦後70年にあたってメッセージをまとめたことだ。

「戦後70年を経て、過去の戦争の記憶が遠いものになるにつれ、日本が行った植民地支配や侵略戦争の中での人道に反する罪の歴史を書き換え、否定しようとする動きが顕著になってきている」と懸念を示し、それは「特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認によって、事実上、憲法9条を変え、海外で武力行使が出来るようにする今の政治の流れと連動している」と懸念を表明している。

プロテスタント教会などはすでに集団的自衛権の行使容認に反対や危惧するという声明を出してきたが、従来、政治に対しての「発言」をカトリック教会は避けてきたのだが。

このメッセージを伝えに岡田大司教がバチカンに行き、その謁見、会談の中で、法王が原発にも言及したということだと思量する。

さらに法王は言及している。
「文明を破壊する最たるものとして兵器の製造・輸出がある。そこが膨大な富を得ていることが問題なのだ」とも。

この法王の発言に対してのメディアの反応は遅いし、小さい。

しかし、12億人のカトリック教徒はどう受け止めたのだろうか。

閣僚の中にも洗礼名を持つカトリック教徒もいる。

折しも、福島県の南相馬市が「脱原発都市宣言」を出した。市議会議員の中からは宣言の文言に対してかなり異論が出され、表現はいささか弱められてとも聞くが。

「脱原発を宣言すれば、政府首脳にも会えず、補助金が削られる沖縄のような事態になるのでは」という懸念だ。

市長は、損得で言葉を変えることは在り得ないと言ったというが・・・。

易しく書かれた「旧約聖書物語」を読み返しているのも、読んでみるのもいいかもしれない。
そこに書かれたことは、「今」と重なる部分も多くあるはずだから。

2015年3月25日水曜日

「人為」が自然を壊すと言う「悪」

蕗の薹が芽を出している。コシアブラ、タラの芽、ウド・・・自然の恵みが楽しみな季節。

先日南極観測隊に様子を撮ったテレビ番組を観た。
南極の海は4メートルの氷で覆われている。
氷をドリルで人が一人入れる程度開け、中に潜ってみると、そこには水中生物が繁殖しており、何千年も続いているであろう自然そのものの光景があった。

海中から採取されたものからは、何世紀にも亘った自然物の堆積物が見て取れる。
試験管の中に入れられた採取物から、何千年物自然界の営みが読み取れるという。
観測隊はテントで暮らし、糞尿は全部入れ物に入れて持ち帰る。
その地は研究の対象である。

自然を汚すことはしない。


人間に自然を破壊する“権利”はないはずだ・・・。

沖縄では自然が公然と破壊されている。その端的なことが辺野古のサンゴ礁。

翁長知事の「決断」にある一つの断面。コンクリートブロックが下され、その下敷きになるサンゴ礁。それによる自然体系の破壊。

なぜ自然科学者は、その「政治問題」に対して声を上げないのだろう。地元住民任せにするなよ。学者の使命として、それに抗議すべきなんじゃないか。

知事の判断があっても、それに一切耳を貸さない政府。話し合いの余地は限りなくあると思うけど。

エコロジーと言う。なんでもエコ、エコ。そのエコを名付けた人が、安保や経済を理由に「エゴ」の刃をふるう。「エゴ」が人間を支配している。

人間は自然界の本来の営みに対して踏み入ってはいけないはずだ。
自然を破壊してはならないはずだ。

森林伐採は人間がやる。それは森林を育てるための行為だ。間伐することによって木は成長するのだ。

人間の居住区を増やすために、むやみに樹を切り宅地造成をする。その結果、山津波を起こす。

地震は自然災害だ。原発は文明災害だと言おう。そして、原発は明らかに自然をも破壊した。人間の欲望によっての行為としての原発。山林は汚されたままなのだ。線量は月日の経過とともに、飛散して低くなっていくとはいえ。

あの年、山菜を口にすることは出来なかった。春の味覚は失われていた。


記憶が薄れる、忘れる。それを「風化」と言うならば、僕は「風化」という言葉を封印する。

なぜなら「風」に対して失礼だからだ。

あの原発が爆発した時、風は北西方向に吹いていた。もし、東からの強風だったら、郡山は避難を余儀なくされていた。北西の風だったために飯舘は大きな被害を蒙った。県境の宮城県の丸森もそうだ。

郡山はそれこそ「神隠しされた街」になっていたかもしれない。

どこに逃げる・・・。東北道は損壊していて通行できない。4号線しかない。北か南に逃げるなら。
当然、弟や妹のいる東京を目指すだろう。

しかし、4号線は大渋滞。車はまったく動かない・・・。そんな光景を想像してしまうのだ。

三陸地方の防潮堤。万里の長城のような巨大な石垣。

東京オリンピックのために神宮の森は壊される。野鳥の居住空間は少なくなる。
銀杏の光景、銀杏の景色も無くなる。

自然を破壊するということ。それは「悪」なのだ。

週に一回、「仕事」のために南相馬に行く若者がいる。飯舘を経由していく。
その若者が昨夜も言っていた。

「野積されたフレコンバッグと飯舘の自然の光景は全くマッチしません」と。

自然を破壊することによって、そこに浸食することによって維持される現代文明。それが「悪」だという認識を持たない“経済成長”・・・。

便利さと不便と。もう一回考え直す時としてのあれから5年目の春とでも言おうか。

2015年3月24日火曜日

「一人だけど一人じゃない」ある卒業式のこと、教育のこと

昨日は県内の小学校の卒業式だった。いろんな学校でいろんな卒業式があった。
この子たちは、あの3・11の中を潜り抜けて来た子たちだ。

学校は休みになり、友達とも遊べず、いやそれどころか外遊びも出来ず。
学校が再開されるとマスクをつけ、ガラスバッジを胸に下げて通っていた子どもたちだ。

あのガラスバッジをどう受け止めていたのだろう。あの頃、毎朝すれ違う時に心が痛んだのを覚えている。


川内村立小学校ではたった一人の卒業式があった。秋元千果さん。一時は全村避難だったが彼女の家は3年前に帰村した。同級生18人は戻らなかった。

長くなるが彼女が卒業式で述べた「別れの言葉」の一部を書き写す。


//私は今、卒業証書をいただきました。喜びと感激で胸がいっぱいです。目を閉じると、6年間の思い出が昨日のことのようによみがえります。
 平成20年4月。入学式。新しいランドセルを背負い、胸をどきどきさせながら、入った体育館がとても大きく見えました。見るものすべてが初めてでした。早い早い時の流れ、あれから6年……6年も過ぎました。
 2年生。小学校生活にも慣れ、ちょっぴりお姉さんになれた気がしました。くりかえし練習し、やっと覚えた九九。試験で合格したときはとびあがって喜びました。
 3年生。東日本大震災、福島第一原子力発電所の事故により、小学校は郡山市立河内(こうず)小学校へと移動しました。
友達と離れ離れになり、悲しかったですが、河内小学校のみんなと楽しく過ごすことができました。
 4年生。川内小学校が再開されました。けれど、同級生は誰もいません。いつか、みんなが戻って来てくれると信じ、1人では広すぎる教室で過ごしました。
 5年生。創立10周年記念となる運動会での組体操。最後のピラミッドが成功して良かったです。
 6年生。入学式で1年生を迎えたとき、最高学年という責任の大きさを感じました。小学校最後の運動会。どうしても勝ちたかったです。悔しくて泣きました。修学旅行は5年生と一緒に行きました。少し天気は悪かったけれど6人一緒なら天気は関係ありませんでした。生まれて初めて食べたソースカツ丼。思い出の味になりました。先生の足音を気にしながら部屋での女子トーク、盛り上がりました。長崎市での復興子ども教室。原爆の怖さ、平和の大切さ、そして復興の歴史を学びました。
組体操、最高の思い出を作ろうと一生懸命取り組みました。終わったときに聞こえた拍手と達成感。心が一つになれば、どんな大きなことでもできるとわかりました。
 いろいろなことがあった6年間……。けんかもしました。
 悩むこともありました。だからこそ、友情の大切さや友だちを思いやることの大切さを知ることができました。転びながら、泣きながら、失敗しながら助け合い、支え合い、一歩ずつ、確実に前進してきました。
 在校生のみなさん、心のこもった歌とメッセージをありがとう。私は最高学年になったその日から下級生の見本となるように、今日まで頑張ってきました。今度はみなさんの番です。みなさんの力で、さらに素晴らしい川内小学校を築き上げて下さい//。

 先生方、6年間、お世話になりました。そう言って彼女はひとりひとりの先生との思い出を語る。そして最後に・・・。

 //そして、里美先生。「何事も目標を持ち、最後まであきらめず、やりぬくこと」「自分が嫌だと思うことは人にしないこと」「いつも感謝の気持ちを忘れないこと」など、たくさんの大切なことを教えてくださいました。里美先生が「大人数のクラスと1人のクラス、今、自分で選べるとしたらどっちがいい?」と質問されたことがありましたね。私が出した答えは「大人数も良いけれど、1人も悪くはない」です。里美先生、大好きです。二人三脚で歩んだ、この2年間、忘れません。
 先生方からの愛情とたくさんの教えを胸に刻み、歩んでいきます。ありがとうございました。また、この6年間、たくさんの忘れられない思い出を作ることができたのも、みなさまのおかげと深く感謝しています。
 お母さん。お母さんの思いやりと温かさに守られて、成長することができました。それから、お父さんやお母さんが帰るまで、私やお兄ちゃんの面倒をみてくれるおじいちゃん、おばあちゃん。おばあちゃんの作るかぼちゃの煮物、大好きです。これからも元気でいてくださいね。
 私は友達や先生、家族、地域のみなさんに支えられ、今日、卒業の日を迎えることができました。1人だけど、1人ではない。淋しいけれど、かわいそうではない。笑顔の絆で結ばれた小学校生活でした。この卒業証書とともに、川内小学校で学んだことに自信と誇りを持ち、大きな希望をいだいて、輝く未来へ旅立ちます。ありがとうございました//。


里美先生とはこの2年間の担任の先生の名前だ。ある時先生は気づく。“19人いれば授業中に適当にさぼることも出来る。一人ではできない。いつかパンクする”。意を決した先生はこう言った。
「千果、お互いがんばるのやめっぺ」。授業中出来るだけ雑談をした。アニメや公バナ、職員室の様子。

「もっと泣いてもいいのにこらえてきた。痛々しいぐらい背伸びしていた」と里美先生は振り返る。

「里美先生、大好きです」。卒業生に大好きって言われる先生ってどれくらいいるのだろう。里美先生との会話を通じて自分を見つけていったということ。彼女の別れの言葉には大人が教えられることがいっぱい詰まっているような気がする。

福島の寒村で、こんな卒業式の光景があったことを、同じ年頃の子を持つ親は、自分の子供にそれを話してやって欲しいとも思う。
千果ちゃんの言葉から子供は何かを感じるはずだと思うから。

里美先生はもしかしたら最高の教育者なのかもしれない。そんなことを思う。

千葉県の高校で子猫を生き埋めにした教師がいたという。生徒に穴掘りを手伝わせて。この生徒の心の傷は余りにも大きいだろう。これも教育現場で起きていたこと。

それにしても「一人だけど一人じゃない」。いい言葉だ。胸にしまう。

2015年3月23日月曜日

「彼岸花」から「桜花」へ

お彼岸が終わった。花で満ちていた墓地にはまだその残滓がある。

お彼岸の土日。各所で墓参の人が絶えなかった。

日中の立ち入りが許されている地にも、墓参の光景があった。

「これが最後の墓参りかもしれない」。大熊の人は言う。
そこが中間貯蔵施設の候補地になっているから。

「地方」と言われるところには、各所に墓地がある。個人の家の裏山にも墓がある。先祖代々・・・。

だから「父祖の地」と捉えるのだろう。

彼岸と比岸。行ったことがないから彼岸がどういうところかはわからない。
「死」によって区分けされているところなのか、同化されているところなのか。

墓地とは何か。骨を埋めるとは、うずめるとは何か。

精神性だけで理解できるものか。骨というものが持つ意味とは・・・。

あれから4年が経って、津波に襲われたところから一片の骨が見つかった。
その人は特定された。
遺族にとっては、その一片の骨が、亡くなったその人そのものだ。

墓というところは、死者が眠る場所というよりも生者の心の拠り所なのかもしれない。

位牌と墓。それは日本人の死生観、宗教観からすれば、大きな存在なのだ。
御先祖様とて然り。

墓を失うと言うことは拠り所を失うと言うことにもつながる。

大熊では、比較的線量の低い地域に、帰還可能地域に共同墓地を建設すると言う動きがある。

しかし、代々、身近な存在としてあった墓を墓所を移すことに違和感を覚える人も居る。

「これが最後の墓参りだ」と言った人も共同墓地には賛同しない。

原発事故の被害は“死者”にも及んでいるということ。

手向けられた彼岸の花は枯れる。

制限区域の人は墓で手を合わせることは出来ても、花も供養の品も置けない。

彼らの心情は慮る以外にないのだが・・・。

すでに、世の中は、花の話題は彼岸花では無く、桜花に移ったようだ。
桜と花見の話題が連日テレビを賑わす。新聞のコラムも恰好な話題とする。

それが何故だかは回答を持ち得ないが、大方、墓地には桜がある。
満開の桜が墓を覆う。

東京の青山墓地は桜の名所だ。瀬川家の墓がある都営八王子霊園にも桜が植えられていた。

野仏をまつったような小さい墓にも桜が植えられている。事務所の近所の寺の墓所にも桜が咲く。カトリック墓地の桜も見事だ。眼下にも桜並木がある。

勝手に想像する。

桜の命は短い。短いがまた来年咲く。例年咲く。
人は骨になったとしても、またなんらかの生命となって「生きる」ということの冥示なんだろうかとも。

「3・11」後、常にあの地の桜を想う。夜ノ森の桜の記憶をたどる。

桜花 命いっぱい咲くからに 命をかけて我眺めたり

岡本かの子の句をかみしめる。桜の命とかの子の命。命二つの“姿”を見るからだ。

5年前、当たり前のようにやって来た桜の季節。あの時桜花に思ったことを、また反芻している。
しばらくして、この界隈にも桜が咲いた時、その下で何を思うのだろうか。それを考えるといささかの「不安」さえよぎってくるような・・・。

2015年3月22日日曜日

「ハンコ」。もう一つの原発詩と書

“ハンコ”。私が中学か高校の頃、母は郷里に原発が出来ると言って、現地見学に招待され、土産付きで帰ってきた。もちろん、原発の何たるかはわからない。漠然と安全らしいと言っていたことを覚えている。福島の方々の気持ちを思うと胸が掻きむしられる。

こんな“キャプション”が添えられた大書が据えられていた。
西原清繁という書家の作品。昨日、その書を見た。うたれた。

この西原さんとう書家は埼玉の高校の美術の教師をしていたその道の大家だという。

3・11の大地震を学校で体験し、自宅の相当の損壊を受けた。そして間もなく知る福島原発の爆発。
彼は愛媛県の出身だ。伊方原発が出来るときに母親からきかされた言葉が浮かんだという。

彼は母親の伝え聞きをもとに、一編の詩を作り、自分の持っている表現手段である書道を通して世に問うことにした。
書展の会場には郡山を選んだ。
その詩書を書き写す。

    「おらが村は貧しガッタ」
ある日、村や県のお偉方が来なすって
この村に原発つう未来の発電所が出来ると聞がされたダ
だけんちも おれには原子だの水素だのさっぱり分がんネー
またお偉方が来て 早くハンコ押してくんネエがいっていわっちゃ

村の衆も押したおらも押したダ
んで 原発はいずの間にか当たり前になったんダ

うんだがあの日 大地震と大津波があったダ
そんで原発は壊されてしまったダ
放射能が沢山沢山ばらまかれたダ

安全安全って言ったのは誰だべ
もうおらは何が何だか分ガンネ・・・
先祖以来の土地を離れ村には戻れネ・・・
おらが孫は後々体に異常が出っかも分がんネ・・・

何を守って何の為に生きて来たんだか
おら あん時ハンコ押すんでネガった

貧しくとも家族があだりめえに暮らしてえ~ダケンチョ

もう 帰って来ネ・・・



いささか解読するのに難儀する字体だったが、その作品の横には赤い色で塗られた紙に罪と罰という字が、それ自体がメッセージを発しているような書体で半折の紙に書かれていた。

「人は生きている限り、何かの犠牲の上に成り立っている。これまで電気がつくのは当たり前に感じていたが、原発の地に多くの犠牲があったことを知り、自分の無関心に愕然とした」。そんな“キャプション”が付けられていた。

罪と罰。何が罪で、誰が罰をうけるのか。勝手に穿っていうならば、作者の中に“贖罪”の意識があったのだろう。

しばし、その展示室に立ちすくんでいた。絶妙なレイアウト、絶妙なライティング。

ふと錯覚に囚われる。自分は、あの事故を起こした1Fの建屋の下にいるような。
それは爆発前の場所ではあるが・・・。
1Fによく「見学」に行っていたときに感じたのと同じような空気がそこに感じられたから・・・。

2015年3月21日土曜日

街場の「正義論」

正義と言う言葉の意味をどう捉えるか。そう解するか。何が正義か。
難しい。正義とはその人それぞれの価値観の問題でもあるし。

人は正義でありたいと思っている。正義を見て行くといろんな正義に突き当たる。

アメリカの正義とイスラム国の正義はまったく相容れない。でも双方が正義を主張し、正義の名のもとに戦争やテロを行う。

相容れない、結論が全く違う「正義」を提示された時、それを考える街場の人はおおかた戸惑うのだ。

思想家や哲学者が難しく語る正義ではない。身近にある「正義」なるものからそれを見てみよう。


今、問題になっている生活保護。中には「ずる」をする人がいる。それを非難するのも正義だ。片や、それを過剰に追及し、生活保護なんかやめてしまえということになれば、“社会の格差是正”という、より大きな正義が崩れてしまう。生活保護が、税金を無駄遣いしようとか、不正受給者を作ろうとして出来た制度では無く、どうしても生活できない人を放っておくのはアンフェアだという発想に立ち戻って、社会全体の正義と公正について議論しないと、すべてが“私憤”に終わってしまう。

生活保護家庭で育った子供が、懸命に勉強して、自分で努力して、進学にあたって奨学金をもらえるようになった。役所は、奨学金の一部を「差し引いて」、生活保護金を減額するという。

規則に従って税金を運用するのは役所にとっては正義だ。子供にとっては奨学金をもらえるように努力したことは正義だ。

立場によって「正義のありかた」が変わる。正義は普遍的なものでは無くなる。

正義を「善」だとしてみよう。

「この道はあいさつ道路です」と電柱に書かれている。通りかかる子供たちは、すれ違う人たちに「こんにちは」とあいさつする。大人も子供を見かけると「おはよう」とか「こんにちは」と言葉をかける。これは善行だ。

社会に子供をめぐる犯罪は起きるようになった。東京のどこかの区では、こどもの「おかえり」と声をかけた男性が不審者として警察のリストに挙げられたという。その男性は“善意”の行動をとったものかもしれないのに。

ここにも、街場の「正義論」が存在する。

「フクシマの正義」という本がある。県出身の社会学者開沼博がものした論考だ。サブタイトルは「日本の変わらなさとの闘い」。

 原発を語り出した識者たちの姿や、その他の福島に関心を寄せる人たちに、“善意同士のぶつかり合い”を見るという。
そして、他者の苦痛に対して「善意」を装うが、自分の身に降り掛かってくると善意は分裂すると分析している。
異なる主張を持つ者が、互いにカルト団体のごとく罵倒しあう。
「被害者」や「弱者」を見出し、鬼の首を取ったように大騒ぎする。
言説の軽さにウンザリすると言っているようだ。

 「変わる変わる詐欺」を繰り返した日本の戦後社会。問題の原因を「悪」のせいにし、自分を安全地帯に置いて免責された気分になり、解決すべき問題の放置を繰り返した。当事者を振り回すだけ振り回して、結局何も解決していない。ここに「フクシマの正義」という視点が存在しているのだとする。

きのうオウムのサリン事件に触れた。
村上春樹はあの事件後に綿密は取材を通して書き上げた「アンダーグラウンド」。

「都会の地下には“やみくろ”が存在する」。そんな位置付けをした上で、「
目じるしのない悪夢。私たちはどこに向かおうとしているのか」。と書いた。

さらに言う。
「私たちは何を求めているのか。私たちはいったい何者であり、これからいったいどこに向かおうとしているのか」。
こも問題提起だけをとってみても20年前と今とは何も変わっていないということか。

ちょっとまどろっこしい「正義論」だけど。

2015年3月20日金曜日

「終わりなき不安」の世に生きるということ

東電1Fの1号機、なんと炉心の核燃料が溶け落ちていた。
地下と言うか地中というか、そこにある格納容器の底に落ちていると言う。

ミュー粒子と言う素粒子を使っての透視結果だ。

格納容器の底は確認できないという。ただでさえ膨大な放射線が飛び交っている壊れた1号機。落ちたとう格納容器がどんな形で存在しているのか。その中に果たして溶けだした核燃料があるのか。

もはや名にもわからない状況を露呈している。仮にとかもしものことを思っても致し方ないだろうが。格納容器が破損していればどうなるのだ。とも思ってしまう。

汚染水の問題もさることながら、1Fの現状とはそういうことなのだ。
40年後の廃炉。在り得ないことだ。その終わりなき不安がつきまとっている。

これを一番大きく取り上げたのはNHKのローカルニュースだった。

一面トップでもおかしくないような事なのに。大方メディアの扱いは小さい。

メルトダウンという言葉で「予測されていたこと」と言うのかもしれないが。

当然「帰還問題」にだって影響してくるだろう。建屋カバーの取り壊し問題にだって微妙な翳を投げる。

収束の結末がまったく見えない原発事故。それと向き合って生きていかなければならないということ。

チュニジアではまたもイスラム原理主義の過激派と称する輩のテロがあった。
「イスラム国」なる組織は、さらなるテロを宣言している。

「イスラム国」なる組織による、いわば全世界を相手にしたテロ。それが終えんする糸口は無い。

テロにおびえる日常なるものが存在しているということ。

テロを無くすための手立ては・・・。空爆が強化され、地上軍が派遣されたとしてもあのテロ集団を根絶やしには出来ないだろう。
もはや世界中にその“飛沫”は飛び散っている。

テロを根絶する方法を我々は知らないということ。

そして、なぜ若者があの集団に加わるのか。宗教だけの問題ではあるまい。宗教の「仮面」はかぶっているけれど。若者を引き付けるものがあるのだろう。

厭世観か、現実からの逃避か。

今日はオウムのサリン事件があってから20年目だ。

あの宗教の仮面に隠れたテロ集団。その“後継”たるアレフ。そこへ向かう日本の若者も、いまだもって多いと言う。

なぜ若者がオウムに向かうのか・・・。

「イスラム国」も「オウム」も、残虐なテロ集団だった。罪の意識無くテロを為す。

原発とテロ。言葉としての、見方としての共通項はある。価値観だ。経済成長を目指す人々、そこからこぼれ落ちる人々。富者はより富み、貧者はより貧しくなると言う世界共通の課題。

しかし、それを論じてもテロは無くならない。原発は爆発事故を起こして、多くの人を苦しみの中に追いやっても、あのエネルギーを欲しがる人達がいる。
石油と言う巨大なエネルギーを持っている中東の国。そこで得られた潤沢な資金が、あのテロ集団に回っておる。あの集団もその「利権」を力で手に入れようとしている。

その結末が見えない中で生きている。生きている間にその結末を知ることは不可能だ。

もつれた糸を解きほどすべをしらない。その「悲劇」だけを眼にし、耳にする。

全てを「縮図」という言葉の中にまとめるのも無意味だ。

そしてなによりも、あの事故が起きない限り人は原発の正体を知らない。知ろうともしなかった。事故がおきてもいまだ「知ろうとしない」人達がいる。

テロもその萌芽はあったのにそれが起きて見ないと人は無関心だ。

さらば如何せん・・・・。嘆くだけでは事は済まないし、進まないのだが。

2015年3月19日木曜日

あれは「諷刺画」なのだろうか

諷刺画とは・・・。辞書によれば“社会または個人の過失・欠陥・罪悪などの諷刺を目的にし、機知的・冷評的に描かれた絵画”とある

ならば諷刺とは・・・。“遠回しに社会。人物の欠陥や罪悪などを批判すること”とある。

あのフランスのシャルリ・エブド紙がまた“やってくれた”。イスラムに対してではない。日本に対してだ。

あのムハンマドを“諷刺画”の対象としてテロ事件やあの国の様子が世界に伝えられる前、あの週刊紙が有名になる前、福島原発事故のことを描いていた。

日本の国技とされる相撲をとりあげ、放射能の影響で、手か足かが3本か4本になった、ガリガリに痩せた力士を土俵上に登場させ、テレビのレポーターがマイクにむかって「 「福島のおかげで相撲がオリンピック競技になりました」。とやっている物。

そしてまたやってくれた。福島原発の現場に防護服を着た作業員が二人立つ。その足元には巨大化した鳥の足。バックには煙をあげる1F。

その画のキャプション。作業員二人がその足を見ながら「今年最初のつばめだね」と言っている・・・。

なぜ、「フクシマ」が諷刺画の対象にされなければならないのか。

特に「エスプリ」なるものを好むフランスにあって、これらの画は諷刺でもなんでもない。エスプリのかけらも無い。僕はそう思う。

その意識の根底にあるのは、あのフランス人特有の「差別意識」だと思ってしまう。

あのテロ事件以来、大幅に発行部数を増やしたエブド紙。

あのテロ事件後、「言論の自由を守れ」とばかり「わたしはシャブリ」というプラカードを掲げ、パリの中心市街地を行進した、大統領はじめ、それに参加した欧州各国首脳。何万人、何百万人ともいわれる人達。

あなたがたが守ろうとした“言論”とは何か。テロに対しての怒りだったのだろう。
その紙が、フクシマを愚弄している。それに対してはどう思っているのだろうか。

極めて不愉快なのだ。

フランスといえば原発所有国。そして、福島原発事故のあとキュリオン社が汚染水除去装置をいち早く“売りつけた”。その装置は・・・。

今有る「アルプス」は日本産の装置だ。

東電や国は、キュリオン社に対してどれくらいの「報酬」を支払ったのだろう。

暴論かもしれないが、原発事故が、どこかで商売の道具とされているの感ありだ。

諷刺とは、社会に対して、権力対して向けられるものだと思う。原発を揶揄し、諷刺の対象にするのは勝手だ。でも、その表現がなんであってもいい、侮辱するものであってはならない。まして事実として無いことを妄想逞しく世に出すと言うのはどういう神経なのだろうか。

日本にも諷刺画というのが存在した。新聞の一コマ漫画も言ってみれば諷刺画だ。しかし、それはどこかで的を射ており、クスッと笑わせるものを持っている。

江戸時代かた明治時代、大正時代を、昭和の初期まで“活躍”していた宮武外骨とう人がいる。画も描いたが彼の発行してしていた「滑稽新聞」というのは、まさに諷刺の精神に富んでいた。彼の筆先は常に権力者や金持ちに向けられていた。
投獄されてもいる。投獄体験をすら彼は諷刺のネタにした。

あらあらしい言葉を使ってはいたが、庶民感情には大いに訴えるものがあったはずだ。

グローバル社会がどうだとか、日仏関係がどうだとか、そんなことは言わない。

諷刺どころか、愚弄の、ガセネタの対象にフクシマを使って欲しくないという事。

当然、国として「厳重抗議」の対象になると思うのだが。
それも、まやかしの“言論の自由”という中で、ほっておかれることなのか。

国内の言論機関に対しては、あれほど“締め付け”を強化しておきながら・・・。

2015年3月18日水曜日

人生の持ち時間

かつて「人生50年」と言われていた。
織田信長が好んで舞った謡曲「敦盛」の一節。

“人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
             ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか”

若いころ、たしか会社の定年は55歳だったような記憶がある。今は60歳定年を延長する動きとなった。

人は必ず死ぬ。滅す。

何歳まで生きるか。それを寿命だと言う。何歳まで生きるか、生きられるのか、生きねばならないのか。自分ではさっぱりわからない。もし、わかったとして、例えば余命何年と告げられたとして、それとどう「対峙」出来るのかもわからない。凡庸な高齢者だから・・。

東日本大震災。一瞬にして幼子も、子供も、若者も、高齢者も、さまざまな命が失われた。その事を「得心」出来る言葉は無い。

多くの死と向き合った東北の若者たちは、そこにあった「無常」を乗り越えて、もしかしたら70年生きていたとしても「学べなかった」ことを数年で学んだ。

そして立派に成長している。昨日書いた菅原彩加さんもそうだ。

人生に持ち時間というものがあるのかもしれない。そんな気がしてくる。
持ち時間を有意に使っている人もいる。まったくもって無駄に使っている人もいる。

持ち時間・・・。将棋や囲碁にも持ち時間というのがある。スマホにも“持ち時間”があるようだ。電池の寿命のことだけど。買い換えることで寿命を延ばすような“設計”になっているとしか思えない。買い換え重要で、会社は潤うという仕組み。どうもパソコンにも“持ち時間”があるような気がする。

原発にも持ち時間があるようだ。40年経過したものは廃炉の対象になる。廃炉作業には核燃料の取り出し含め、また何十年という年月を必要とする。

おおかた、原発一基の“持ち時間”は、人の一生に相当するということになる。

中間貯蔵施設の持ち時間は30年と言われている。福島の廃炉には40年かかるといわれている。すべて「根拠」は明白では無い。

そういう教育がされはじめていると言うが、20年後、廃炉作業に当たれる人は果たしているのだろうか。的確に対処し得るという意味でも。

使用済み核燃料。それの地中深くでの保管、保存。何百年、何千年先まで「安心」は出来ないという事。

失われた20年という言葉がある。誰が名付けたのかわからない。それは流行言葉とされ、自虐的な意味でも使われる。

1961年以降の20年だという人もいる。バブルが崩壊した1991年からだという人もいる。その時期に生まれた人たちは、ロストゼネレーション世代だと言って、世を嘆く。

失われて20年。いずれも「経済成長」のこと「それの頓挫」を指しているようだ。

そして、原発に必要性を言う人達は、必ず「経済成長のために必要なエネルギーの確保」だという。

あまり意味を持たないように思える「失われた20年」という言葉に“あやかる”ならば、原発事故がおこした、多額のコストロス。何兆円かかるかわからないような「負」をどう捉えているのか。

少なくとも、避難させられている福島県人は、何十年の「失われた時」を持ったということか。

20年・・・あと16年。その失われた時間は取り戻せるのか。無い。

沖縄県民も、原爆被災者も、すでにして「失われた70年」を持っている。
勘弁してくれよ。失ったままだぜ。

人生の持ち時間。その持ち時間をどういかしていけばいいのか。どうも昨晩の「夢見」が悪かったような気もして・・・。それを引きずったままの今日の妄言。

2015年3月17日火曜日

「命二つ」

3・11前後。ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「これからの正義の話をしよう」~今を生き延びるための哲学~という本やテレビでの白熱教室が話題になった。

災後来日したサンデル教授の白熱教室は、東大や東北大学でも行われた。学生に交じって真剣に議論を交わす古川日出男という郡山出身の作家の姿もあった。

災後に書かれた震災文学「馬たちよ、それでも光は無垢で」、さらに「ドッグマザー」。何かを得ようと読んだ記憶がある。

今年の3月11日。東日本大震災の追悼式典で、遺族代表の一人として話をした宮城県石巻市の菅原彩加さんという人がいる。彼女が語った当時のこと。
「津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。しばらく流されたあと、私は運よく瓦礫の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けてみると釘や木がささり足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが、私一人の力ではどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母の事を助けたいけれど、ここにいたら私も流されてしまう。“行かないで”という母に私は“ありがとう、大好きだよ”と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
そんな体験から今日で4年目。あっという間で、そして長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。
震災で甚大な被害を受けたにもかかわらず、東北にはたくさんの笑顔があります。
震災で失った物はもう戻ってくることはありません。悲しいが消えることも無いと思います。前向きに頑張っていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、失ったものと同じくらいのものを人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います」。

この言葉を聞いていて、サンデル教授の白熱教室であった“例示”を思い出していた。
暴走列車の話しだ。

路面電車が疾走している。あなたはその運転士だ。ブレーキがきかなくなった。前には5人の人が作業している。このままだと5人を殺してしまう。待避線がある。作業員は1人だけだ。待避線に入って一人を殺すのか、そのまま5人をはねるのか・・・。

この例示に正解は無い。道徳的な板挟みの中でどうするかという提示だ。難解な哲学的提示だった。たしかに正義とは何かを問われる問題提起だった。

奇しくも、以前も借りた立教新座高校の校長が、あの年の新入生に対してこんな話をしている。

「命二つ」という話だ。

「命二つ中に生きたる桜かな」。芭蕉の句を引いての話しだ。
“この句の解釈は、20年余りも会うことのなかった友人二人が、命あって再会することが出来た。その喜びの中に桜がいきいきと咲いているということになりでしょう。私たちは命を自分一人のものと考えがちです。それを芭蕉は命二つときりだしたのです。命は自分一人のものですが、一人で支えているものではありません。単数では無く、複数の命によって支えられているのです。他者の存在なしに、命はありません。
親、友人、もう一つの命に支えられ、命二つの中で生きているのです。自分にとってかけがえのない命は、相手にとってもかけがえのない命なのです。
命二つと考えることは、相手の心に近づき、自分の身を相手に重ねることなのです・・・」。

命二つ。それは彩加さんとお母さんの関係そのものだとも思う。彩加さんは命二つの世界に生きているのだなと。

4年間、葛藤しつづけた自分の気持ちに整理がついたからこそ、あのスピーチが生まれたのだろう。

今日は全くの春の陽気だ。その陽気に誘われて、命の芽吹きが始まる。命と言うこと、生きると言うこと。もう一回考えてみてもよいのではと思い。

2015年3月16日月曜日

「標語」のこと

双葉町の中心部にある標語の看板。
「原子力明るい未来のエネルギー」。その看板を町は老朽化を理由に撤去する方針を決めた。議会にその予算措置を提案する予定だった。

その標語を作った当時小学校6年生、大沼勇治さんが「撤去反対」を町や町議会に申し入れた。大沼さんは39歳になっている。

かつて大沼少年は原発についていささか懐疑的だったという。しかし、原発によって、原発のおかげで町が「豊か」になって行く様子をみていて、「原発」に対する意識が薄らいでいったという。そして、町の募集があって、学校の宿題として出された“標語”。あの標語を作り優秀賞を獲得した。当時の町長からも表彰もされた。

そして今、彼は転々と避難を繰り返し、家族とともに茨城に住んでいる。あの標語が“登場”するたびに心が痛んだと言う。

避難生活の中で、原発は明るい未来どころか、故郷の町をズタズタにした。今の彼の想いだ。

「負の遺産として保存し、人間の愚かさを後世に伝えるべきだ」。彼の信念だ。

「老朽化して危険だと町は言うが、あの周囲に崩壊しそうな公共施設は多い。
看板だけ撤去するのは間違った過去と向き合わない行為。それだけの金額があれば補強できる。子どもたちにも真実を伝えていきたい」。

看板撤去絶対反対。そう書かれた看板を持ってあの標語の下に立つ。

保存運動も始めるつもりだとも言う。

標語。辞書にはこうある。

主義・主張や運動の目標などを簡潔に言い表した語句。

とかく日本人は標語なるものが好きだ。時として、標語なるものは同調意識をかき立て、集団行動を促す働きも持つ。

「欲しがりません 勝つまでは」。戦時中はこの標語一色だった。“規範”とされていたのかもしれない。

おまけになんとか週刊というのも日本人の好みらしい。

交通安全週間には「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」。「注意一秒、怪我一生」なんていうのもあった。

新聞週間とやらは、もともとは“新聞少年”の激励の意味があったようだが、いつの間にか変化が起き。

1950年代。「新聞は世界平和の原子力」というのがあった。
まさに原子力歓迎じゃないのか。

そして、今は笑える。

「新聞は正しい政治の見張り役」というのも。「真実の記事に世論がこだまする」というのも。

「3.11」の時、新聞週間の標語は「上を向く 力をくれた記事がある」だった。

大沼さんの信念、行動が、運動のための運動をしている人達に組み込まれないことを祈る。

双葉町の伊沢史朗町長は「議会と相談しながら対応を考えたい」と述べたといわれるが・・・。

そしてこの世の中、「赤信号みんなでわたればこわくない」って”規範”が出来上がっているようだし。
 

2015年3月15日日曜日

「東京オリンピック」がもたらすもの

あと5年余り長生きすれば「東京オリンピック」を二回経験することになる。

日本中が湧きに沸いた昭和39年の東京オリンピック。最後の聖火ランナーはたしか原爆の体験を持つ広島出身の人だった。

あのオリンピックを機に東京は大きく変わった。首都高速道路が出来た。羽田から都心を通って終点は初台。

初台の光景はすっかり変わった。甲州街道から太陽の光が無くなった。東京の、いや江戸の原点でもある日本橋。道路の起点としての日本橋。その橋も高速道路の下になり「日の当たらない場所」になっていた。

東京の車の渋滞は高速道路とともに語られるようになり・・・。そして、それによって、オリンピックそのものと合わせて「経済成長」が“国是”ともされ、東京は発展していった。

それはいつしか多くのエネルギー、電気を必要とするようになった。

その結果としての福島原発の大事故。

多くの被災者がその日をどう生きるかを思案していることなど全く無関係のように、またもや東京オリンピック招致合戦が繰り広げられた。

そのために福島原発は「完全にコントロールされている」という世紀の大嘘が吐かれた。

あの招致最終決定の場のあの光景。プレゼンテーションの数々。そして開催が決まった瞬間のあの場にいた安倍はじめ関係者の姿。抱き合って乾季の涙を流す姿・・・。醜い姿としかとらえられなかった。

「お・も・て・な・し」、合掌しての礼。それが流行り言葉になり、だれもかれもが「おもてなし」。そしてあの格好の物まね。

「おもてなし」という言葉を自分の辞書からは外した。

「我々日本国は2020年のオリンピック招致に向けて努力を重ねてきました。
長年の願望でした。夢でした。しかし、今、この時にあたって我々は一時その夢を放棄します。なぜならば、東日本大震災があり、多くの国民が苦しんでいます。その人たちのために我々は全力を注ぎたいのです。

震災の傷が完全に癒えてからあらためて立候補します。権利をそれまで“留保”します。この際、我々はイスタンブールがその地になるよう推挙します。
我々はまだ覚えています。イラン・イラク戦争時、フセイン政権の暴挙によって空港に孤立していた日本人を救出してくれたのはトルコ航空機であったこと。それはトルコ政府の指示によるものだったこと。それは明治時代にあった両国の歴史、エルトールル号の海難事故にあたって日本人が示した助け合いの精神を、トルコの人が忘れず、いまだに学校教育でその歴史を教えている。
少なくとも、あの救援機を出してくれたことへの恩返しの意味でもイスタンブールに世紀の祭典の場を譲ることが日本人としての矜持だと思ったからです」。

そんなことはありえないが、もし、安倍が、そんな驚天動地のようなスピーチをしたら、かれは国際社会から認められた歴史に残る、オリンピック史上に残る名宰相として「国際社会において名誉ある地位」を占めたことになったのだがと。

古い国立競技場は解体されている。思い出の詰まった場所がまた東京から消える。弾丸道路も走らせる計画も進行中だという。東京の姿はまた大きく変わる。

建設ラッシュに湧く東京。福島からも被災地からもそこに「出稼ぎ」に行く熟練労働者がいる。
被災地の「復興」なるものは遅々として進まない。人でも何も足りないからだ。復興住宅の建設も進まない。建設関係の仕事は「東京オリンピック」に集中しているからだ。

スポーツの祭典が、国威発揚の具にされている。国力や民度を誇示するためのものになっている。

2020年までに「この国の負」である「汚れたもの」は隠そうとしている。

オリンピックそのものを否定なんかしているのではない。それを「政治利用」すること、それに何等の違和感を感じない人たちへの批判だ。

「五輪より一輪の花被災地へ」

福島県人が詠んだ句だ。

2015年3月14日土曜日

「汚染物質」のことから考えること

昨日から中間貯蔵施設への“放射性廃棄物”の搬入が始まった。まったく“手始め”と言った具合だが。
その施設はまだほんの一部だけしか出来ていない。2千人を超す地権者との「合意」が成立していないからだ。

県内各所にあるあおの黒いフレコンバッグが全部搬入され貯蔵されるまでどれくらいかかるのだろう。

きっと誰もわかっていないのだ。そして、30年間貯蔵後に最終処分場に移る。法律は出来てはいるが、その候補地は決まっていない。
いや、それは決まるわけもない。

「指定廃棄物」と言われるものでも、その処分場を巡って住民との間に軋轢がおきている。受け入れる場所はどこにもないだろう。

処理技術が開発され、“減容処理”が為されたとしても、この国土の中で、受け入れるところは無いはず。

そんな「現実」がわかっているのに「嘘の法律」を作ってめくらましするというのはどういうことを意味しているのか。

東京オリンピックまでに、もしかしたら「福島」を見に来る人たちの、外国の人たちに、あの醜悪な黒い袋の山を見させなければいいということかもしれない。

仮置き場を持っている地域の人たちは中間貯蔵施設への搬入を望んでいる。身の回りから「それ」が無くなることを望んでいる。
それはそれで当然のことだ。

その施設を持っている、大熊・双葉の住民の心境はいかばかりだろうか。

現実をさまざまな観点からみて、“やむをえない”そう判断する人もいる。納得できないという人もいる。

その地、その地によって県民の判断や意見もバラバラだ。その上、大方が「最終処分場になる」とみている。

国はことあるごとに、この問題だけではなくとも「粛々と進める」という。
粛々という言葉の意味はなんだ。

丁寧な説明と必ず言う。あらゆることで丁寧な説明なんて聞いたこともない。
丁寧な説明という言葉の意味はなんだ。

その場しのぎの言い逃れってことか。

悩ましい現実が始まったということなのだ。だからこれも「5年後」なのだ。

少なくとも3年間は、皆「躁」の状態だった。「3・11」に対して。

きょう14日は東京で計画停電が行われて時だ。一日に2巡する地域の人は、「なぞここなのか」と怒っていた。

どこか、この国中が「躁」の渦の中にいた。躁から生まれる思考とは・・・。

福島県産の食品を買わない人が大勢いた。

「西日本産のものばかり買っていました。ようやくこの頃、福島県産のものに対する考えが変わってきたようにも思えます」。そんなことをテレビで答えていた首都圏の主婦がいた。

5年目、やっとどこかでは冷静にものを見られる人が出始めたということか。

「結い」「絆」。言葉の持つ同調性が一つの空気を作っていた。

今はどうか。それはその地域だけでの「言葉」にすらなっているようだ。

同調・・・。その象徴的なものとしてのテレビ。

昨日も今日も、話題は北陸新幹線であり、北斗星だ。まさに右に倣えだ。

その話題を否とするものではないが、「フクシマ」は福島だけのことになってしまっているようだ。

そして政治は、あらゆることに於いて「無情」に推移している。情けない。その言葉はそのままあの人にお返しする。

5年目、何が変わったのかという意識調査みたいなことをNHKがやっていた。
「節電意識」だと言う。

はたしてそうだろうか・・・。節電と言う“躁”からも脱出しつつあるようにも見受けられるのだが。

挙句、中間貯蔵施設に搬入される汚染物質の中に、いわゆる「核のゴミ」が入っていると思っている人もいた。

とにかく、この福島が抱える多くの難題、難問、そして犠牲。それは原発の電気の供給を受けて来たひとたちもあまねく共有する問題だ。

しかし、それは他人事。福島への封じ込め。

きょうもまた立ちすくむ思いの中にいる・・・。

2015年3月13日金曜日

“村民がいるから村がある”

「村民がいるから村がある」、「国民がいるから国家がある」。
そんなことを漠然と考えている。

昨日12日は長野県栄村で大地震があった日だ。過疎で高齢化の進む村を襲った地震。
村民たちも村長も、孤立した村の中で耐えに耐えた。

村民がいなくなった村がある。村の名前はあるが、そこに居住する人はいない。
正確に言えば、居住出来ないってことだけど。

地名はその地域の歴史だという。
地名からその地の歴史がわかるとも言う。

さまざまな地名には、そこで暮らしてきた人たちのさまざまな思いが託されている。

さまざまな地名にはそこで暮らしてきた人たちのさまざまな歴史が刻まれている。

双葉郡、あるいは双葉町。それは標葉と楢葉が合わさって出来た呼び名だ。
二つの葉・・・。

「ムラ」で生きてきた人たちは「ムラ」の外では住みにくい。いや、住めない。

未だもって“見知らぬ地”に避難した人たちが、「避難してきました」とは言い出せない現実。

5年目の「課題」の一つはそれだ。

居住の自由という方の範疇ではない。人間の感情の範疇だ。

あらゆることに「寛容」で有るはずの日本人が、あることでは「不寛容」になる。
その「壁」の問題・・・。出身を隠すということ。それは全くの自己否定とならないのか。


「国民がいるから国家がある」。そのはずだった。それがいつの間にか反対にされた。国家のために国民が居るといった発想に転換させているような人がいる。

国家とは何か。そこに君臨する人の人間性が耐えられないほど辛い。

報道への“圧力”を問われたオウサマは、「それくらいで委縮するとは情けない」と大見得を切った。

たしかにそうだ。情けないのだよ、メディアの人達。発奮しなさいよ。オウサマの挑発に立ち向かいなさいよ。

「人の情け」を持たない人に「情けない」と言われることを恥としなさいよ。

あまり大きく取りあげられていないこの発言。国会での発言。海外ではどう捉えられているのだろう。

怒らないメディアにも海外のメディアは失望しているはず。

国家の品格はかってないほど落ちた。それが、国民の品格ともされかねない。

そのオウサマは国民の力ではどうしようもないほどの存在なのか。

常に辛酸をなめるのは普通の人達だと言うこの国の現実。

なぜなのだろう・・・。

なんだか、なげやりのような今日。

2015年3月12日木曜日

それは「負の遺産」の象徴だと思うのだけど

双葉町のメインストリートにある“標語”を書いた看板。メディアやネットでもよく使われているもの。

「原子力、明るい未来のエネルギー」。

その看板を町は取り壊す方針を決めたと言う。
もう一つある看板、そこには「原子力正しい理解で豊かな暮らし」。


昭和63年と平成3年に、町民に募集をかけ採用されたものだ。

町の撤去理由は「老朽化が進み、危険だから」という事らしい。

前者の標語を書いたのは当時小学校6年生だった人だ。

もちろん今は避難生活を送っているが、一時帰宅のたびにその看板を「書き換えた」写真を作っている。

例えば「「原子力 制御できない エネルギー」。
「脱原発 明るい未来の エネルギー」などと。

書いた当時も、素直に原発を受け入れていたのではないという。しかし、「原発と共存する町」に居て、「原発」に関わる感情は薄れていっていたのではないかと本人は言っているという。

そして事故があって自分の作った標語がなにかと取りざたされる中、「書き換え作業」にあたっているのだと言う。

撤去費用は410万円だとか。

その標語の表彰状を書いた当時の町長は岩本という人。この人も最初は“原発反対”だったとか。町政をあずかるようになって、財政状況を見ていくにつれ、原発誘致にならざるを得なかったとも聞く。

今まだ「話題の人」である井戸川前町長も、7号機、8号機の容認に転じていたと言う。

つまり「原発がなければたちゆかない町」となっていたのだ。

双葉町が撤去に動くということ。それは例えば東京から、反原発運動の人たちが来て、防護服姿で、その前に立って“記念撮影”をしている。それが全国に広められている。そのことへの“反感”。つまり原発の町とされる双葉の負のイメージを無くそうということもあると想像できる。

もう、負のイメージは背負って居たくないというような。

それは、どこかからの「圧力」めいたものがあったのではないかとも。

しかし、あの看板があったことは事実だし、原発をめぐる立地地域の象徴でもあるのだ。

撤去して解体するのかどうかはしらない。しかし、あの看板は双葉町史を物語る一つの時代にあったものとして残されるべきではなかろうか。

撤去しても、「保管」はすべき“負の遺産”なのだとも思う。

看板を撤去して「帰還時期」が早まるわけでも無いし。

例えば、広島に原爆ドームがあるように、この国の歴史の中で、決して忘れてはならない事実があることを、その看板が伝えているとも思えるから。

双葉町のことに余計な口出しをする気はないが・・・。

安易に使いたくない言葉ではるが「風化」ということ。あの看板がある限り「風化」をいささかでも食い止める役割だってあるのではないかとも。
町にとっては辛い事かもしれないが。

今日、テレビ局時代の部下の葬式に行ってきた。享年52歳。あまりにも若い死。僧侶は東日本大震災の事を“説法”の中で触れていた。
そのことは胸に届くようなものでは無かったけれど、「死者とどう向き合うか」は、いつもながら葬儀に参列しておもうこと。メメント・モリ。死を想え。

死者との対話、死者を忘れないということ。

あの看板を“死者”として扱い、“荼毘にふす”ことへのいささかの違和感。

2015年3月11日水曜日

「毎日が3月11日だ」

5回目の3月11日が来た。

丸4年、そして5年目。それが長かったか短かったか。それはその人の中にある「時間軸」がきめる。

さっき、雪がやんだ時、車を走らせていると、たまたま、前をシルバーマークを付けた軽自動車が走っていた。なんとなく運転が危うげだった。
あきらかに高齢者の人が運転している。

シルバーマークの脇にステッカーが貼ってあった。「がんばろう福島」。
そのステッカーは多分、4年以上前に、その車の持ち主が、万感の思いを込めて貼ったものだろう。
しかし、雪の汚れのせいではない。明らかにそのステッカーはすっかり色褪せていた。

廃墟の町同然となった避難区域の商店の看板のように。

ステッカーと同じように人の心も色褪せるのか。そんな“想い”に捉われてしまった。

5年目。それは先が見える時の経過ではない。むしろ先が見えない時期の入ったとも思う。

道路は開通した。鉄道も復旧している。明後日からは中間貯蔵施設への搬入も始まる。

眼に見える範囲では、変わったことがある。でも・・・。

未だ避難者は12万人。県外避難者も2万人を超えているという。

仮設住宅の住む人が言っていた。

「毎日が3月11日だよ」と。

彼らにとっては、4年間で何も変わらなかったということだ。

重い言葉であり、真相を言い当てている言葉だ。

仮設には空室が目立つようになった。そこで亡くなった人も、移住した人もいる。
この「移住」ということ。住み慣れない土地、言葉の違う土地、慣習の違う土地。そして賠償金をめぐる感情の軋轢・・・。

5年目。新たな課題が、問題が、考えなくてはならない問題が生じているのだ。

そして、人々は皆「疲れている」のだ。生活に、日常に、将来展望に。

毎日、愚にもつかないことを書いてきた。書いてきた本人も疲れている。
身体も頭もだ。

毎日が「3月11日」なのだ・・・。

カトリックでは復活祭の前の40日間を四旬節という。その時にあたってローマ法王、フランシスコ教皇がメッセージを寄せている。
「人は、自分が健康で快適であるうちは、他の人々のことを忘れています。無関心という利己的な態度が広まっています。
不幸な人のことは考えません。他の人々の問題や苦しみ、彼らが耐え忍んでいる不正義などに関心を示さず、心は冷たくなっていきます。
この問題に真剣に取り組まなければなりません」と。

2011年、言葉を発しない宗教者のことを責めた。だからあえてこのローマ法王の言葉を引用してみた。

「忘れる」「無関心」であること。それが被災者を一番苦しめていることだとも思うから。

「毎日が3月11日だ」。それは被災者だけの言葉ではない。我々全員にとっての「言葉」なのだと思うのだ。


2012年のこの日、「去年のこの日に生まれた虎ちゃんへ」ということを書いた。その次の年もそうだったかもしれない。

瀬川虎ちゃん。仙台在住。あの激しい地震の中で生まれた子どもの名前だ。
その虎ちゃんとテレビで“再会”した。2012年は写真だったが、今年はスタジオにいた。お父さんに抱かれて。

一昨日放送されていたNHKの「震災から4年、明日へコンサート」という番組だった。5歳になる虎ちゃんは、あどけない笑顔でカメラを見つめていた・・・。

そう、きょうは虎ちゃんの誕生日でもあるのだ。

「過去を記憶していく責任」。そんな言葉が我々に投げかけられているような気がする。とにかくこの「時代」に生きてしまった。生かされてしまった。生まれてしまったのだから。

過日書いた倉本聡の舞台、ノクターン。ラストシーンのちょっと前は、千万年か1億年後の海中での3人のピエロの会話だった。

郡山に「青い窓」という児童詩誌がある。平成7年だったか。5歳の子供が話した言葉を母親がメモして投稿していた。
「おかあさん、地球で一番最後の人が死んだら、誰が葬式するの?神様?それとも風?」。

黙祷する。亡くなった1万5千8百人の方の霊に。そして、夜、もう一回瞑目し、祈り、黙祷する。
原発が異常を来したことがわかった頃、2キロ圏内の人たちの避難が始まった頃に。それはこの国の“滅亡”すら暗示する事だったのだから。

2015年3月10日火曜日

反省と謝罪と寛容と


今日は東京大空襲のあった日である。10万人の東京府民が亡くなった日である。70年前・・・。

東京の下町と言われるところが集中的に空爆され、焼夷弾、機銃掃射によって、民間人が犠牲になった日だ。

東京への空襲はそれまでもあったが、こんな大規模な空襲は無かった。これで「息の根を止めよう」とする空襲だった。

隅田川は累々たる死体で埋まり、その人たちは荼毘に付されることもなく、横たえられていた日だ。

この日、東京には居なかった。姫路にいた。だから直接逃げ惑っていた経験は無い。
もちろん、姫路も大空襲に会い、機銃掃射を逃れながら逃げ惑ってはいたが。そこで死者の多くを見たが・・・。

この時、なぜ日本は戦争を終わらせるという道を選ばなかったのだろうか。選べなかったのだろうか。首都東京は壊滅した。一面が焼野原。
アメリカの意図は、日本国民に恐怖感を与えることであったとも言われる。

しかし、その恐怖は口に出せなかった。

この時止めていれば、広島も長崎も無かったのに。

民間人を打ち殺した米軍兵士は、それを知って「謝罪」の言葉を口にした。

日本国民を守れなかったことについて、日本の国の指導者から謝罪の言葉は無かった。

戦争の反省すらもだ。

ドイツのメルケル首相が来日した。彼女は東ドイツの出身。戦争の後遺症を背負っているはず。

ドイツはナチスの戦争を反省した。そしてその犯罪行為があったことを認め、各国に謝罪した。

<過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目である>

統一ドイツ後の大統領に就任したワイツゼッカーの言葉。その言葉は、精神はドイツ国民の中に根付いている。彼らは“盲目”であることを拒否したのだ。

そして戦勝国であるフランスは寛容の精神をもって、謝罪を受け入れた。

メルケル首相は日本の原発事故にも学んだ。脱原発の道を選んだ。多くのドイツ国民はその選択を支持している。
少なくとも福島の事故は、ドイツという国を目覚めさせた。

そのメルケル首相と並んで立った安倍は、臆面の無く「再稼働」を言う。

過去の戦争への“反省”を述べた村山談話をすら変更しようとしている。

二人とも同年齢のはず。あの戦争を知らなかった世代。メルケルは過去に学んだ。過去を学んだ。

安倍は何かを学んでいるのか・・・。

70年前どころではない。4年前にあったことからも学んでいない。

彼我の指導者のことを考える。その年月が長かろうが短かろうが、過去に目を閉ざしている。だから「現在」に対しても盲目なのだと思う。

東京大空襲で亡くなった人たちの遺族は言う。そして謝罪するアメリカ兵に寛容のこころで向き合っている。

「戦争はしてはならない」と。その悲痛な声に“安部”は耳を傾けない。

戦争は必ず民間人も、子供も道連れにする。

戦後、1年足らずで東京に移住した。まさに廃墟のあとに。そこに建てられたバラックの「復興住宅」の一部屋に身を寄せていた。お化け煙突の残滓が見え、まだ瓦礫だらけの町。

焼け跡から鉄くずや釘を拾い集めるのが子供の“役割”だった。
上野の地下道には戦災孤児が溢れていた。打ちひしがれたように復員兵が復員服を着て街をさまよっていた。

焼夷弾で焼かれた姫路の家は広かった。遊べる庭もあった。姫路城への坂道が遊び場だった。気が付けばバラックの一部屋に一家6人・・・。

4年前にあった福島の光景と重なるのだ。

なぜ戦争があるのか。戦争とは何か。小学校に入ってから、授業では教えてくれない「戦争」について、子供なりに学んでいた。親が言ったわけでも無い。

それを「知らなくてはいけない」という想いが湧き出ていたからか。

とにかく今日は東京大空襲があった日。10万人の命が一瞬にして消された日・・・。70年前のこと。

2015年3月9日月曜日

「忠犬ハチ公」で思う事

「忠犬ハチ公」が、飼い主と再会出来た。飼い主の勤務していた東大の構内で。
80年ぶりの再会。ブロンズ像のハチ公は嬉しそうな表情をしていた。

ハチ公。東京渋谷駅の“象徴”だった。西口広場、以前東横デパートの前にその銅像があった。
「物語」によれば、ハチ公はご主人の東大農学部の教授、上野英三郎氏の飼犬。
毎日、御主人が帰ってくるのを渋谷駅に出迎えていたという。
先生の家は、うろ覚えだが、神南あたりだったような。

1925年、先生は仕事場で急死。それを知らぬハチ公は毎日渋谷駅に迎えに行き、10年間待ち続けていたという逸話だ。

ハチ公物語には真偽取り混ぜいろいろな説があるが・・・。


学生時代、友達との、土日の待ち合わせ場所の一つが渋谷、ハチ公の前だった。
そこから道玄坂を上り、ジャズ喫茶に行くのが常だった。
「ハチ公」を触っていること。それが「お約束」。ともあれ、幼少時代から馴染みの深いシンボルだった。

2年前、原発事故を扱った映画「無人地帯」の試写会に行くため、久しぶりに様変わりした渋谷の駅頭に降り、ハチ公と対面した。居る場所が変わっていたように思えた。移動させられていた。しかし、顔はしっかと駅に向けられていた。

忠犬ハチ公。その物語は、当時のご時世とも関係していたような気がする。忠義ということが重んじられていた時代。
最初のブロンズ像は「供出」されてしまったということも含めて。

でも、なんであろうと「再会」出来てよかった。同じ渋谷の“住民”だったという感傷も含めて。


事務所の近くの知り合いに、かつて、その家では代々シェパードを飼っており、可愛がっていた人がいる。

そのシェパードは「ドン」と呼ばれていたとか。戦時中、軍用犬として徴用された。出征兵士を送る会のような町内会行事があった。ドンは忠君愛国と書かれたタスキをつけられ、町内の人達のうちふる日の丸の小旗に送られ、兵隊さん連れられてどこかに行ったという。もちろん帰っては来なかったと聞く・・・。


「3・11」。きっと多くの犬も津波に流されたのだと思う。その他の動物もだ。
でも、その話はあまり伝えられない。
「板切れ」に乗って漂流している犬、それを助けた消防士。それ自分が抱いている“デジャブ感”かもしれないし。

原発避難。鎖につながれたまま置いておかれる犬、飼い主の車を追いかける犬。鎖を食いちぎって逃走した犬・・・。そんな映像を、あの頃は随分と見たものだ。

その度に悲しかった。もちろん、それも犬だけでは無い。猫も牛も豚もそうだったのだが

最近、ネットで動物の犬や猫の動画がしきりに公開されている。「癒される映像」として、どこかのサイトにあるようだ。

なぜ、その「癒し」が、多く露出されるのか。癒されない世相の中にあって、本能的に動物に癒しと慰めを貰うという“世論”があるからだろうか。

災後、隠れたベストセラー本の中に、犬にまつわるものも多かった・・・。

セラピー犬という“仕事”についた犬は、施設に行き、人々を慰めている。
スキンシップという行為の中に、お互いの“友情”さえ生まれている。

渋谷のハチ公、その銅像の鼻を触るのが好きだった。なぜか手に伝わってくるものがあったような・・・。

そして、飼い主の「都合」で、保健所送りにされる犬もいる。たくさんいる。
片や、シェルターを作ってそれらの犬を保護し、新たな飼い主を探す運動をしている人達もいる。

犬をめぐる、取り巻くいろいろな世相。そこから何を見ればいのか。

「3・11」の前年に旅立った犬「澪」。澪の写真に向かってハチ公のことを話してみた。写真の澪はどこか嬉しそうに、目をキラリと光らせたような気がした・・・。

「3・11」特集、企画が始まっている。まだ動物を巡る話は出てこない。辛く悲しい思いは人間も犬も同じなのに。

被災した野良猫は、今朝も我が家に来ていた。ご飯をいっぱい食べて、どこかに出かけて行った。夕方、また戻ってくるはず。すっかり、まるまると太っておる。冬の寒さもしのげたようだ・・・。

2015年3月8日日曜日

「半減期」ということ

原発事故後、飛散した放射性物質について、「半減期」と言う言葉が多用された。

ヨウ素は8日、セシウムは30年、ストロンチウムは29年と言った具合に。
半減期と言う言葉が「半分に減る」とうことなのか、「影響がなくなる」ということなのか。よくわからないまま、一つの“安心材料”のごとく使われていた。

少なくとも、セシイウムについては、外部被ばくであれ、内部被ばくであれ、その半減期にすら至っていない。

汚染水は貯まる一方だ。半減どころか増大の一途。
廃棄物も行き場を失ったものを含めてそのまま。

中間貯蔵施設が出来たら半減するのかどうかも不明だ。

そんな中、丸4年を迎える中、「風化」という言葉がさまざま言われている。
4年で半減したものがある。

それは人の記憶だ。

人の記憶にも「半減期」というのがあるのを再認識した。そして、その「半減期」を迎えるスピードは速い。

記憶を半減させる“操作”が為されているようにも思える。

“正常の範囲内”と専門家にいわれる子供の甲状腺異常の問題もそうだ。

常磐道が、沿線の線量は高いにも関わらず開通され、それをして“復興”の象徴とされる。

4年前にあんな大事故があったにも関わらず、いまだに12万人の人が避難生活を送っているにも関わらず、それは「過去にあったこと」として、記憶から遠ざかっているような感がある。

再稼働へ向けての作業だけは“着々”と進む。

記憶とは、かって経験したこと、見聞きしたことの“蓄積”だ。忘れた記憶は呼び覚ますことが出来るはず。

その意図があるのかどうか。メディアでは「あれから4年」の番組や企画を作っている。
それは「半減期」を戻す作用とはならないのだろうか。

記憶の半減期。もう70年前にあったことも半減どころか・・・。


半減しない記憶もある。悲しみの記憶だ。それは半減どころか増幅さえしている。

人生の「半減期」っていつなのだろう。時日、時間でいえば、もうとっくに半減期は過ぎているはず。
半減期を過ぎた人生が何を考えればいいのか・・・。どうすればいいのか・・・。

なんか、そんなことをつらつらと思う今日。

2015年3月7日土曜日

「幸福」って定義・・・きわめて“感性”なのに

「集団的自衛権」をめぐる動きが急だ。驚くくらいに。どうも公明党の立ち位置もよくわからないし。議論のための議論が行われてもいるようだし。

そして、言葉の言い換えも、すげ替えも行われている。

集団的自衛権行使を容認する三つの要件というのがある。あるというより、自民党が、いや、官僚が決めたもの。
その中の一節。

「日本と密接な関係にある他国が攻撃を受けた際、我が国の存立が脅かされ、国民の生命・自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合い」。

密接な関係がある他国への攻撃。それと我が国の存立とがどう結び付くのか。
極めて非論理的な論法の展開だ。

なによりもわからないのが幸福追求の権利ということ。

ここで言う「幸福」って何をさすのか。どういうことを言うのか。曖昧すぎる言葉の弄びと言いたい。

“密接な関係”にあるアメリカのシンクタンクの調査では、日本の「幸福度」はいわゆる先進国の中では最下位だという結果もある。

内閣府の統計結果分析でも、例えば年齢別に追うと、高齢になるにしたがって幸福度が増しているのが、右肩上がりなのがアメリカ、対照的に極端に右肩下がりになっているのが日本という結果も公表されている。

昔、こんなCMがあった。

♪幸せって 何だっけ 何だっけ~。うまいしょうゆのある家(うち)さ。
うまいしょうゆはキッコーマン、うまいしょうゆはキッコーマン、キッコーマン♪

さんまが踊って歌っていた奴。

ちょうど、バブルと重なった頃だったか。たぶん、世相は「幸せ」というものの漠然とした疑念を抱いていたころだったのかも。その「空気」を敏感に察知したCMクリエーターが作ったものだったのかもしれない。

「幸せ」「幸福」「幸福度」。人によってそれぞれ違う。

カネが基準なのか、その他なのか。全くの個人的な感性の問題だ。

「戦争をするための理由」として幸福追求があげられるっておかしさ。

戦争をしなければ、人は、環境にもよるが「幸福」でいられるはずなのに。

あの戦争が終わった時、多くの日本国民は「幸福」を感じていたはずなのに。

政治家や官僚の日本語力が落ちていると思う。知性も教養も低くなっていると思う。
永田町、霞が関と飛び交う言語は著しく品性すら欠いている。

全くの定義の無い「幸福」ということの意味。その曖昧さ。

「幸福」というのは、人それぞれの価値観。今、安保法制の論議をしている政治家に聞いてみたい。

「幸福」とは何かということを。たぶん明快な答えを持っている人なんていないだろう。

ならば問う。福島県民にとって幸福とは何か。アンダーコントロールなどという曖昧な言葉が許されるのか。
一部を除いて、大方、恫喝に屈し、牙を抜かれたマスコミ。あなた達の幸福とは・・・。

せめてゲーテの言葉でも送っておこう。

「権力を批判しない者は悪魔に魂を売った者だ」。

悪魔は幸福をもたらしてはくれない。だけど“悪魔”が忍び寄ってくる気配・・・。

2015年3月6日金曜日

家は住まねば朽ち果てる

突然、中学校の唱歌の歌詞を引く。誰もが知っているであろう曲。

“幾年ふるさと 来てみれば 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
門辺の小川の ささやきも なれにし昔に 変らねど
あれたる我家に 住む人絶えてなく
昔を語るか そよぐ風 昔をうつすか 澄める水
朝夕かたみに 手をとりて 遊びし友人 いまいずこ
さびしき故郷や さびしき我家や“

元歌はアメリカの“民謡”、♪My Dear Old Sunny Home♪。
「故郷の廃家」と訳されていた。

故郷の廃家。それは今、この国にしっかりと存在している。

あれから間もなく丸4年。4年間人が住んでいなかった家。住めなかった家。
たぶん、もう住めないだろう家。

かろうじて許されている年に数回だけの一時帰宅。
地震による損傷。手入れをされていないことによる損傷。雨漏り、破れたままの窓。野生動物に荒らされて室内。いたるところにあるネズミの糞。
土足でしかあがることの出来ない「生活」が「日常」があった場所。隅々まで手入れされていた家。神棚、仏壇・・・。

そして何よりも止まったままの時計・・・。

未だ帰還を諦めない人もいる。移住を決断した人もいる。それを売りたくても売れない家。土地に“値段”のつかない家・・・。

ほとんどの人は、いや、太古の昔から人は「家」にこだわってきた。生き物が「巣」を作るように、そこは「巣」であるから。

貧しいけれど、家があり、普通の生活をしている僕にとって、その「故郷の廃家」があることをどう咀嚼すればいいのか。そのことをまったく「消化」出来ない。

いま、多くの地で「空き家」が問題になっている。

都会でも、ほうぼうに空き家がある。人が住んでいない家は確実に朽ちる。
倒れそうな古い家。その持ち主はわからないという。役所は、それが持ち家であろうと借地であろうと、借家であろうと固定資産税を課けてきたろうに。

朽ち果てようとする空き家は「危険」すら伴う。

東京オリンピックなるもののために、都市整備が進んでいる中で、その脇に存在する「空き家」。

国立競技場が昨日解体されている映像を見た。パワーシャベルがスタンドをえぐっている。不覚にも涙が出た。

会津地方に空き家。会津だけではない。全国に進む過疎化。その空き家は、豪雪地帯の空き家は、雪下ろしもされないまま、雪の重みで潰される・・・。

空き家が生まれるのはいろいろな事情があるのだろう。しかし、そこには、何年か何十年前まで「人の営み」があったはず。

郡山の駅前の繁華街、一等地に巨大な「廃墟」があった。誰もいないビル。宮部みゆきの小説の舞台になりそうな。

あのダイエーが進出し、しばらくしてトポスに代わり、まもなく“倒産”。別館は3・11で半壊状態だった。そこはなぜか解体に費用が補助金から出されていたようだが。

その問題の本館。地権者は家賃が入ってこないから固定資産税をずっと滞納していた。総額は10億円以上。だれもが問題視していたが、手をこまねいていた。三菱リアルエステートが管理会社になっていた。

突然のように(市民にはそう映る)、市は差し押さえ処分を解除した。それが公表されると時を同じくして、買い手の業者が現れた。駅前の商業ビル、飲食店ビルを多角的に経営している「観光会社」。

いわゆる競売にはならなかった。買い手と地権者、地上権を持っている人達のあいだで、どういう金銭の流れがあったか、あるのかはわからない。

巨大なビル、廃墟のビル問題は決着がついたけど・・・。今の駅前の様相からして、その土地がかなりの収益を上げるかどうかもわからない。

とにかく、一つの「空き家」にケリが付いたということ。
そこから1キロも離れていないこの事務所。界隈には、とみに「空き家」が目立ってきている・・・。

「空き家」という“社会現象”のこと。

2015年3月5日木曜日

・・・だから「風化」ということについて

結局、きょうも倉本聡の事を書いている。“風”についてきのうは書けなかったからだ。

パンフレットにある作者の言葉。

「本来、日本の漢字には風という字が溢れ返っている。
風土・風物・風景・風格・風雅・風光・風潮・風雲
風趣・風韻・風水・風情・風災・風雪・風霜・風伝
風摩・風聞・風紋・風来・風浪・風波・風候・風流

日本人が本来自然と共に生き、風のもたらす香りや音に敏感にナイーブに接し続けてきた、その伝統の重みの証しだろう。だが、今この国に流れる言葉は、風災・風評・そして風化。こうした言葉だけが流れるのは悲しい。

風化とはそもそも、1千、1万、1億年をかけて、岩が石となり、石が砂となり、砂が塵となり風に飛散する。そうして遠大な時をかけての、長大な宇宙の営みである。それが、この僅か4年足らずに、福島の事故に関してこの国に起こってしまったとするなら、宇宙の倫理に明らかに反した、これは悲しすぎる出来事である。だが、その出来事が堂々と進んでいる」。


この言葉を読んで、また戸惑う。

風化ということを自然現象としてとらえるなら、そうだろう。風化と言う言葉の中に、いわば“物理的”な現象と人間の“意志”だ「同居」しているから厄介なのだ。

それにしても風化。風化とは「忘れる」ということにもつながる。「逃げる」ということにもつながる。

「フクシマ」の風化は、もうとっくに始まっている。

倉本の世界に例えるなら、誰かが大きな削岩機を持ってきて、自然の為せる業ではなくて、人為として岩石を打ち砕き、塵にして、飛ばしていってしまっているということだろうか。

誰が削岩機を持ってきたのか。一つは国家だ。そして曖昧な言い方だけど、時代の「風」だ。風という空気だ。

そういう意味では、広島も長崎も沖縄も水俣も、そして70年前の戦争だって「風化」している。いや、させられている。

「風化」を止めるには「風」を変えなければならないのだ。

なぜか人は「スピード」を「速さ」を求める。その風潮はとみにましている。
「止まる」ということを潔しとしなくなった。

スピードを必要とするところを間違えている。事故処理、避難者支援、それにはスピードが必要だ。しかし、そこにあるものは「遅々として進まない現実」。

風、風、風・・・。今この国を覆っている風、強風。
その風に立ち向かうのは息が詰まるくらい、そう台風の中で呼吸することの、吹雪の中で呼吸することの難しさにも似ているのかもしれない。

「風のガーデン」。死を迎える一人の医師を主人公に、彼を取り巻く家族の物語。

そのドラマの音楽はノクターンだった。平原綾香だったか。歌っているのは。彼女が歌ったノクターン20番は「カンパニュラの恋」という曲名になっていた。

カンパニュラ。宮沢賢治の銀河鉄道の夜の副主人公の名だ。ジョバンニの親友の。

倉本聡が塾生に与えた言葉があるそうだ。

「木は根によって立つ。されど人の眼に触れず」。

木の根に風化はあるのだろうか。木とは自然の“象徴”だ。そして、人は「根」という言葉を好む。

ならば、いま、我々が考えなくてはいけない「根っこ」ってなんだろうか。

飛躍するようだが、昔、「若い根っこの会」というのがあった。東北出身の人が立ち上げ、高度経済成長期を支えた集団就職の子どもたちの集まりがあったということ。たぶん、今はもう無いのだと思うけど・・・。

時代の移り変わりで風化した運動だったのかもしれないけど。

2015年3月4日水曜日

「ノクターン・夜想曲」~倉本聡と“風”~

昨日、倉本聡の作品、作・演出の舞台「ノクターン、夜想曲」を観た。
この芝居が原発事故を扱ったものだということは知っていた。知っていたから、倉本聡がどう書いたのか、何を伝えようとしているかに関心があった。

でも、「予見」や「予知」、「予断」を持たずにいった。白紙の状態で知りたかったから。

「北の国から」以来の、いわば倉本フアンだ。「きのう悲別で」、「前略おふくろ様」テレビドラマを見ていた。そのシナリオ本も読んだ。

今も時折発せられる彼のメッセージを見聞きしていた。

まったく偶然だ。きのう、このブログに「自然」のことを書いた。書いた時に倉本聡のことは頭になかった。それが夜に“つながって”いた・・・。

滅多にしないことを会場でやった。「プログラム」を買ったのだ。そして、開演前にそれを広げた。

驚いた。なんと作品の原点が、原町の詩人、若松丈太郎にあったということだ。

「神隠しされた街」。

チェルノブイリ後に、そこを訪れた若松丈太郎が書いた詩。1994年の詩だ。

「3・11」後に、その詩を知った。このブログにも引用したと思う。あちこちに、その詩を用いた。塾でも紹介したかもしれない。

原発事故後のこころの「空白」を埋めるために、餓えたように求めていた文学や詩、そこに救い主のように見つけたのがその詩だった。

最初、その詩に接した時、それは2011年4月のその地を詠んだものだと思ってしまった。読み進めるうちにそれがチェルノブイリを書いたものだとわかった。でも、光景は全く同じなのだ。

倉本はそれを「予言詩」だと記している。まさにそうだったのだ。

舞台のピエロの一人は若松だ。読み上げられる詩は抜粋されている。全文を書きたい。長文だ。きょうのブログの最後に記しておく。

倉本が富良野塾を開いた時の「起草文」というのがあるそうだ。プリグラムから引く。

「あなたは文明に麻痺していませんか。石油と水とどっちが大事ですか。車と足はどっちが大事ですか。知識と知恵はどっちが大事ですか。批判と創造はどっちが大事ですか。理屈と行動はどっちが大事ですか。あなたは感動を忘れていませんか。あなたは結局、何のかんのと云いながら、我が世の春を謳歌していませんか」。

この“価値観”が倉本作品には貫かれていると思う。

「ノクターン」でも、主人公が一人語りする。1F作業員だった男が。家族を失った男が。

「コントロールされているなんていう奴は嫌いだ。再稼働をいう奴も嫌いだ。再稼働反対ってデモしている奴も嫌いだ。デモが終わって家に帰れば、明るい電気と家電製品に満ち溢れ、贅沢な日々を送っている・・・」。

しかし彼は言う。「どうして泣いたかというと説明するとな・・・人間て良いなって思ったからなんだ」とも。

もう7年以上前だろうか。「風のガーデン」というドラマがあった。そのドラマのテーマ曲も、ショパンの「ノクターン」だった。今回はそれがタイトル。
そのドラマにも「人間の良さ」が描かれていた。それが死を迎えるものであっても。

そして「風」。時代の風、空気、匂い。

倉本も若松も戦争経験者だったということ。戦地には行っていないが、あの時代の風を引きづっているということ。

ショパンのノクターン。それはポーランドがナチスドイツに侵攻され、ショパンの曲は演奏禁止とされていた。

ノクターンという作品タイトルの意味がわかった。

彼の作品で、これも時々引用させてもらったドラマ「歸國」。2010年の終戦記念日、一両の軍用列車が東京駅の新幹線ホームに滑り込む。降りてきたのは帝国軍人。軍服姿の、銃剣を携えた。彼らは故郷にそれぞれ向かう。

そして・・・皆が戻ってくる。「俺たちが戦ったのは、こんな経済成長に浮かれた国の為にではなかった」と言い、また軍用列車で消えていくという話だ。

ノクターンの舞台を見ながら、変な話だが、僕の魂は「純化」されていくように覚えた。そして「原点」をあらためて想起した。

あすはいわきで公演がある。土曜日には福島市。東京での公演はすでに終わっている。

この舞台は、福島県民はもちろんであろうが、県外の、東京の人にぜひ観てもらいたい。

その機会があるかどうかは知らないが。福島を理解してもらうためにいささかの“素材”となるであろうから・・・。


以下、若松丈太郎の原詩を書きとめておく。長いが・・・。

「神隠しされた街」
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
サッカーゲームが終わって競技場から立ち去ったのではない
人びとの暮らしがひとつの都市からそっくり消えたのだ
ラジオで避難警報があって
「三日分の食料を準備してください」
多くの人は三日たてば帰れると思って
ちいさな手提げ袋をもって
なかには仔猫だけを抱いた老婆も
入院加療中の病人も
千百台のバスに乗って
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
鬼ごっこする子どもたちの歓声が
隣人との垣根ごしのあいさつが
郵便配達夫の自転車のベル音が
ボルシチを煮るにおいが
家々の窓の夜のあかりが
人びとの暮らしが
地図のうえからプリピャチ市が消えた
チェルノブイリ事故発生四十時間後のことである

千百台のバスに乗って
プリピャチ市民が二時間のあいだにちりぢりに
近隣三村あわせて四万九千人が消えた
四万九千人といえば
私の住む原町市の人口にひとしい
さらに
原子力発電所中心半径三〇㎞ゾーンは危険地帯とされ
十一日目の五月六日から三日のあいだに九万二千人が
あわせて約十五万人
人びとは一〇〇㎞や一五〇㎞先の農村にちりぢりに消えた

半径三〇㎞ゾーンといえば
東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
双葉町 大熊町
富岡町 楢葉町
浪江町 広野町
川内村 都路村 葛尾村
小高町 いわき市北部
そして私の住む原町市がふくまれる
こちらもあわせて約十五万人
私たちが消えるべき先はどこか
私たちはどこに姿を消せばいいのか
事故六年のちに避難命令が出た村さえもある

事故八年のちの旧プリピャチ市に
私たちは入った
亀裂がはいったペーヴメントの
亀裂をひろげて雑草がたけだけしい
ツバメが飛んでいる
ハトが胸をふくらませている
チョウが草花に羽をやすめている
ハエがおちつきなく動いている
蚊柱が回転している
街路樹の葉が風に身をゆだねている
それなのに
人声のしない都市
人の歩いていない都市
四万五千の人びとがかくれんぼしている都市
鬼の私は捜しまわる
幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
台所のコンロにかけられたシチュー鍋
オフィスの机上のひろげたままの書類
ついさっきまで人がいた気配はどこにもあるのに
日がもう暮れる

鬼の私はとほうに暮れる
友だちがみんな神隠しにあってしまって
私は広場にひとり立ちつくす
デパートもホテルも
文化会館も学校も
集合住宅も
崩れはじめている
すべてはほろびへと向かう
人びとのいのちと
人びとがつくった都市とほろびをきそいあう
ストロンチウム九〇 半減期   27,7年。
セシウム一三七   半減期   30年。
プルトニウム二三九 半減期   24,400年。
セシウムの放射線量が八分の一に減るまでに九十年
致死量八倍のセシウムは九十年後も生きものを殺しつづける
人は百年後のことに自分の手を下せないということであれば
人がプルトニウムを扱うのは不遜というべきか

捨てられた幼稚園の広場を歩く
雑草に踏み入れる
雑草に付着していた核種が舞いあがったにちがいない
肺は核種のまじった空気をとりこんだにちがいない
神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない

私たちの神隠しはきょうかもしれない
うしろで子どもの声がした気がする
ふりむいてもだれもいない
なにかが背筋をぞくっと襲う
広場にひとり立ちつくす


2015年3月3日火曜日

傲慢になったか人間は

「3・11」後、人間は自然に対して「畏敬」の念を持った時があった。いや「はず」と言った方がいいのか。

畏敬の念の前には、その恐ろしさに恐怖感を覚え、為す術がないことを知った。
そして・・・。

「自然によって生かされている」ということを思い知った。

放射能が自然に与えた影響は計り知れない。
その“事象”を列挙するまでもないだろう。

「化け物」としての核を制御できると信じていた人間。

危険な事象を抱えながらの1Fに対して「安全宣言」を言った政治家の傲慢さ。
人知の及ぶ範囲では無いにも関わらずだ。

汚染水問題がなんら解決していないにも関わらず「完全にコントロールされている」と言い放った現政権。

言えるはずもないことを、言うことが出来ないことを、言い放つと言う傲慢さ。

それは華麗な祭典である東京オリンピックを意識しての詐言だったとしか思えない。

「1Fの事は誰もわからない。だれもその実態を知らない」。

それしか言うべきことは無いはずだし、それくらいの謙虚さを持ち合わせていて然るべきだったのに。

人間だけでは無い。この地球というところに棲んでいる生物は。生物は自然の摂理そのままに生きている。

汚染された土地でも、そこが住めるところだと本能で察知したアリたちは、驚くくらいの鋭い頭脳を働かせ、巣作りをする。

やがて桜の季節がくる。桜は、それがどんな地域であっても平等に咲く。

山菜は自生する。すべからく自然の法にのっとったものとして。
山菜から10㏃、基準値(国が決めた)を越えた放射性物質が検出される。
すぐに出荷規制とくる。

100と110の差異は何か・・・。

勝手に、よくわからないまま、決めた数値で物事を判断する。一種の傲慢さだ。

犬の食中毒ってあるのだろうか。彼らは嗅覚と本能で、危険な食物は避けるはず。

三陸の海、瓦礫が大量に沈んでいる海。そこではすでにして、多くの魚や海中生物が棲みついている。新たな生態系を営んでいる。

いわき沖、相馬沖の海の中からは海産物が獲れる。海の汚染度はどうなのかはわからないが、そこに魚は生息していることだけは事実だ。

ぐだぐだは言うまい。

人間は自然の恵みを貰って生きているということなのだ。

土踏みという昔からの知恵で、土は固められ、麦は育つのだ。金子みすゞは“新しい”のだ。

人間に自然を破壊する権利は無いはずだ。でも、傲慢な人間は、例えば戦争のため、たとえばかりそめの経済成長の為に自然を、なんのためらいもなく破壊していく。

そのことの「無為」なることに、3・11は気づかせてくれたのに。

沖縄の辺野古の海には、巨大なコンクリートブロックが沈められ、サンゴ礁を押しつぶしている。
海の中にある生態系。サンゴが育む海の中の生態系。

それを壊すことはやはり傲慢だ。

「安保と基地とサンゴ礁」と。

どれを取るかと言われれば、躊躇なく「サンゴ」を取る。サンゴの立場に立つ。サンゴ礁の悲鳴を聞く側に立つ。

なぜ、生物学者という人達は、海洋学者という人達は、公然と怒らないのだろうか。それは「食」の問題とつながっているはずなのに。

あれこれ・・人間を傲慢にしたのは何か。勝手な「欲望」というしかないのかも。

日々、胸の痛むことを見聞きしながら、まもなく「原点としての3・11」を迎えるのだな・・・。と。

2015年3月2日月曜日

優しさと残酷さが“同居”する国

月に一回、頭を刈ってもらっている奴がいる。中野君とういう男。彼が一人でやっている美容室は年中無休。だけど年に1週間くらい休む。
彼は決まって旅に出る。
タイのプーケット島でコテージを借りて海と星を見ながらぼけ~と暮らしていたり。
ここ数年は、日本全国を愛車と共に回っている。今年は山陰、九州を回ったという。
彼の車はもう古びたいすゞの4駆ジムニー。「なぜか“あいつ”と一緒に見て回りたいんですよ」と言う。

車との“二人旅”。優しくされる時があったという。優しさに触れて、「自分もやさしくなれたような気がする」という。

人にやさしくしようと思うようになったという。優しくした時に自分の心が“洗われるよう”になったと言う。

助け合い、お互いさまの精神がいかに大事かと、いや、それは自分の中で“消化”するものだけれど、その意味がわかったという。

そして彼は気づいたという。「優しさ」を感じ、「優しくしよう、なろう」と思った、人にやさしくされた時の喜びがわかるようになった、その原点は「3・11」にあったようだと。

「僕は3・11があって、変わった、変われたような気がします。変わることに決めました」とハサミをしまいながら断言した。

「3・11」の被災者に、いまだ避難をしている不自由な暮らしをしている人たちに、どれほどの人が優しいのか。
助けを本当に求めている人達に向き合っているのは、おおよそ「ボランティア」と呼ばれる民間の人だ。

この国には優しい人たちがいる。

川崎の少年殺人事件。あまりにも残酷な事件だ。それ以前にも、3・11後にも残酷な事件はいろいろあった。

川崎の事件を「語る」ことは至難の業だ。根底には多くの問題が潜んでいるから。
現場には花を手向ける人たちが訪れる。その周りには多くのテレビや新聞などのメディアが取り囲む。「やさしさ」を伝えようと。

しかし、中には尻込みする人もいる。写りたくないとして。静謐であるべき鎮魂の場が、ひとり静かに哀悼の念を示したいという人は、その気持ちをどこかで“乱される”。

あの場から引くのもメディアの優しさではないかとも。寄るカメラ、突き付けられるマイクが時には残酷にも感じられる。

昔、その「残酷さ」を経験しているから。残酷であった側にいたから。

だから思う。この国は「優しい国」なのか「残酷な国」なのかと。

政治はその両面を持ってやってくる。

やさしくしなくても生きていける人にはやさしく、優しさを必要としている人に対しては残酷なほど冷たい。

「男は強くなければ生きてはいけない」という時代があった。やがてそれは「男は優しくないと生きている意味が無い」と言う風な価値観に代わって行ったが・・。

テレビのCMが伝えた、時代を敏感に吸収したCMのあった時代・・・。

かくて、優しさと冷たさ、あるいは残酷さが“同居”している国をどう生きていけばいいのか。そんなテーマにぶち当たる。

どっちかにぶれないといけないとしたら、弱くてもいい、優しさの側に身を置きたいと思っているのだが。

たまに「床屋談義」をするのも悪くは無いということ。

2015年3月1日日曜日

「少年」あるいは「未成年」ということ

18歳の時、高校を卒業した。卒業式は3月25日。4月1日が大学の入学式だった。

学生服、あれを何で学ランと呼ぶのかはよくわからないけれど、同じ服で襟章を替えた。解放感があった。
煙草も自由に吸える。酒も飲めるという“不良的”な動機。

それらは20歳からとされていた。でも、周囲も世間も大学生であるというだけで扱いは20と同等だった。

その「規定」は今でも変わらない。酒も煙草も二十歳から・・・。

20歳以下は「未成年」とされている。いろんな意味で社会的に“庇護”されている。

二十歳になれば選挙権もある。

未成年による犯罪。それを犯した者に対しては、おおよそ匿名だ。無条件に匿名扱いすることに慣れてきた。

川崎であった少年殺害事件。犯人として逮捕された者はメディアの上では匿名だ。18歳以下であるから。

ネットでは実名や住所まで、学校名まで出回っているが。あくまでも未成年匿名の原則は新聞、テレビの中では貫かれている。

沖縄与那国島では住民投票を15歳以上とした。中学生にも投票権を与えた。

改憲を目指す国民投票の年齢も18歳に引き下げた。

少年、少女。未成年。それの規範がわからない。

川崎の事件、犯人の一人は17歳で妻子がいたという。10代で結婚する人達も世間では珍しくない。大人として扱われている。
確かに歓楽街では18歳未満お断りとうことにされているが。

年齢による大人と子供の判別。それが社会の実態に即したものなのかどうか。

その区分けが、必要なのかどうか。


「3・11」後、10代の若者を全く持って見直した。大人が子供に励まされ、助けられていた。ボランティア活動でも10代の若者が“主役”だった。
そして、「被災地」から発せられる子ども達、若者たちの言葉は見事だったし、胸を打ったし、ほとんどが“作為”の無い言葉だったし、行動だった。

きょう3月1日。県立高校の卒業式だ。県内でも1万人以上が「大人」の道へと進んでいく。
県立小高工業高校は、避難して仮設の校舎で3年間を過ごしてきた。生徒数も減った。近々、小高商業と合併するという。

3年間、「フクシマ」を背負ってきた高校生。彼らの心中はいかばかりかと。

仮設の校舎で過ごした3年間を嘆くどころか、そこにいられたこと、そこから得られたこと。それを誇りにすら思っているようにも見えた。

教育の在り様が、今、大きな社会問題にすらなっている。
家庭の在り方、学校の在り方、社会の接し方・・・。

大人よりも優れた子供がたくさんいる。片や凶悪な犯罪に走る若者もいる。

未成年、二十歳という民法の規定が何ほどの意義を持っているのかに疑念さえ覚える。

高校の卒業式。たびたび引いた立教新座高校の校長が、変わってなければ、あの渡辺校長が、今年はどんな式辞を子供たちに与えるのか。
あの校長の式辞に送られた卒業生たちは、その人生に中で、「座標軸」を持ったとも思えるのだが。

“不良少年”でありながらも、安保反対闘争に大いなる関心を持ち、盛り場に出ては大人の世界を垣間見て・・・。あの頃が妙に思い起こされる。