2015年3月19日木曜日

あれは「諷刺画」なのだろうか

諷刺画とは・・・。辞書によれば“社会または個人の過失・欠陥・罪悪などの諷刺を目的にし、機知的・冷評的に描かれた絵画”とある

ならば諷刺とは・・・。“遠回しに社会。人物の欠陥や罪悪などを批判すること”とある。

あのフランスのシャルリ・エブド紙がまた“やってくれた”。イスラムに対してではない。日本に対してだ。

あのムハンマドを“諷刺画”の対象としてテロ事件やあの国の様子が世界に伝えられる前、あの週刊紙が有名になる前、福島原発事故のことを描いていた。

日本の国技とされる相撲をとりあげ、放射能の影響で、手か足かが3本か4本になった、ガリガリに痩せた力士を土俵上に登場させ、テレビのレポーターがマイクにむかって「 「福島のおかげで相撲がオリンピック競技になりました」。とやっている物。

そしてまたやってくれた。福島原発の現場に防護服を着た作業員が二人立つ。その足元には巨大化した鳥の足。バックには煙をあげる1F。

その画のキャプション。作業員二人がその足を見ながら「今年最初のつばめだね」と言っている・・・。

なぜ、「フクシマ」が諷刺画の対象にされなければならないのか。

特に「エスプリ」なるものを好むフランスにあって、これらの画は諷刺でもなんでもない。エスプリのかけらも無い。僕はそう思う。

その意識の根底にあるのは、あのフランス人特有の「差別意識」だと思ってしまう。

あのテロ事件以来、大幅に発行部数を増やしたエブド紙。

あのテロ事件後、「言論の自由を守れ」とばかり「わたしはシャブリ」というプラカードを掲げ、パリの中心市街地を行進した、大統領はじめ、それに参加した欧州各国首脳。何万人、何百万人ともいわれる人達。

あなたがたが守ろうとした“言論”とは何か。テロに対しての怒りだったのだろう。
その紙が、フクシマを愚弄している。それに対してはどう思っているのだろうか。

極めて不愉快なのだ。

フランスといえば原発所有国。そして、福島原発事故のあとキュリオン社が汚染水除去装置をいち早く“売りつけた”。その装置は・・・。

今有る「アルプス」は日本産の装置だ。

東電や国は、キュリオン社に対してどれくらいの「報酬」を支払ったのだろう。

暴論かもしれないが、原発事故が、どこかで商売の道具とされているの感ありだ。

諷刺とは、社会に対して、権力対して向けられるものだと思う。原発を揶揄し、諷刺の対象にするのは勝手だ。でも、その表現がなんであってもいい、侮辱するものであってはならない。まして事実として無いことを妄想逞しく世に出すと言うのはどういう神経なのだろうか。

日本にも諷刺画というのが存在した。新聞の一コマ漫画も言ってみれば諷刺画だ。しかし、それはどこかで的を射ており、クスッと笑わせるものを持っている。

江戸時代かた明治時代、大正時代を、昭和の初期まで“活躍”していた宮武外骨とう人がいる。画も描いたが彼の発行してしていた「滑稽新聞」というのは、まさに諷刺の精神に富んでいた。彼の筆先は常に権力者や金持ちに向けられていた。
投獄されてもいる。投獄体験をすら彼は諷刺のネタにした。

あらあらしい言葉を使ってはいたが、庶民感情には大いに訴えるものがあったはずだ。

グローバル社会がどうだとか、日仏関係がどうだとか、そんなことは言わない。

諷刺どころか、愚弄の、ガセネタの対象にフクシマを使って欲しくないという事。

当然、国として「厳重抗議」の対象になると思うのだが。
それも、まやかしの“言論の自由”という中で、ほっておかれることなのか。

国内の言論機関に対しては、あれほど“締め付け”を強化しておきながら・・・。

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