2015年3月8日日曜日

「半減期」ということ

原発事故後、飛散した放射性物質について、「半減期」と言う言葉が多用された。

ヨウ素は8日、セシウムは30年、ストロンチウムは29年と言った具合に。
半減期と言う言葉が「半分に減る」とうことなのか、「影響がなくなる」ということなのか。よくわからないまま、一つの“安心材料”のごとく使われていた。

少なくとも、セシイウムについては、外部被ばくであれ、内部被ばくであれ、その半減期にすら至っていない。

汚染水は貯まる一方だ。半減どころか増大の一途。
廃棄物も行き場を失ったものを含めてそのまま。

中間貯蔵施設が出来たら半減するのかどうかも不明だ。

そんな中、丸4年を迎える中、「風化」という言葉がさまざま言われている。
4年で半減したものがある。

それは人の記憶だ。

人の記憶にも「半減期」というのがあるのを再認識した。そして、その「半減期」を迎えるスピードは速い。

記憶を半減させる“操作”が為されているようにも思える。

“正常の範囲内”と専門家にいわれる子供の甲状腺異常の問題もそうだ。

常磐道が、沿線の線量は高いにも関わらず開通され、それをして“復興”の象徴とされる。

4年前にあんな大事故があったにも関わらず、いまだに12万人の人が避難生活を送っているにも関わらず、それは「過去にあったこと」として、記憶から遠ざかっているような感がある。

再稼働へ向けての作業だけは“着々”と進む。

記憶とは、かって経験したこと、見聞きしたことの“蓄積”だ。忘れた記憶は呼び覚ますことが出来るはず。

その意図があるのかどうか。メディアでは「あれから4年」の番組や企画を作っている。
それは「半減期」を戻す作用とはならないのだろうか。

記憶の半減期。もう70年前にあったことも半減どころか・・・。


半減しない記憶もある。悲しみの記憶だ。それは半減どころか増幅さえしている。

人生の「半減期」っていつなのだろう。時日、時間でいえば、もうとっくに半減期は過ぎているはず。
半減期を過ぎた人生が何を考えればいいのか・・・。どうすればいいのか・・・。

なんか、そんなことをつらつらと思う今日。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...