2015年3月20日金曜日

「終わりなき不安」の世に生きるということ

東電1Fの1号機、なんと炉心の核燃料が溶け落ちていた。
地下と言うか地中というか、そこにある格納容器の底に落ちていると言う。

ミュー粒子と言う素粒子を使っての透視結果だ。

格納容器の底は確認できないという。ただでさえ膨大な放射線が飛び交っている壊れた1号機。落ちたとう格納容器がどんな形で存在しているのか。その中に果たして溶けだした核燃料があるのか。

もはや名にもわからない状況を露呈している。仮にとかもしものことを思っても致し方ないだろうが。格納容器が破損していればどうなるのだ。とも思ってしまう。

汚染水の問題もさることながら、1Fの現状とはそういうことなのだ。
40年後の廃炉。在り得ないことだ。その終わりなき不安がつきまとっている。

これを一番大きく取り上げたのはNHKのローカルニュースだった。

一面トップでもおかしくないような事なのに。大方メディアの扱いは小さい。

メルトダウンという言葉で「予測されていたこと」と言うのかもしれないが。

当然「帰還問題」にだって影響してくるだろう。建屋カバーの取り壊し問題にだって微妙な翳を投げる。

収束の結末がまったく見えない原発事故。それと向き合って生きていかなければならないということ。

チュニジアではまたもイスラム原理主義の過激派と称する輩のテロがあった。
「イスラム国」なる組織は、さらなるテロを宣言している。

「イスラム国」なる組織による、いわば全世界を相手にしたテロ。それが終えんする糸口は無い。

テロにおびえる日常なるものが存在しているということ。

テロを無くすための手立ては・・・。空爆が強化され、地上軍が派遣されたとしてもあのテロ集団を根絶やしには出来ないだろう。
もはや世界中にその“飛沫”は飛び散っている。

テロを根絶する方法を我々は知らないということ。

そして、なぜ若者があの集団に加わるのか。宗教だけの問題ではあるまい。宗教の「仮面」はかぶっているけれど。若者を引き付けるものがあるのだろう。

厭世観か、現実からの逃避か。

今日はオウムのサリン事件があってから20年目だ。

あの宗教の仮面に隠れたテロ集団。その“後継”たるアレフ。そこへ向かう日本の若者も、いまだもって多いと言う。

なぜ若者がオウムに向かうのか・・・。

「イスラム国」も「オウム」も、残虐なテロ集団だった。罪の意識無くテロを為す。

原発とテロ。言葉としての、見方としての共通項はある。価値観だ。経済成長を目指す人々、そこからこぼれ落ちる人々。富者はより富み、貧者はより貧しくなると言う世界共通の課題。

しかし、それを論じてもテロは無くならない。原発は爆発事故を起こして、多くの人を苦しみの中に追いやっても、あのエネルギーを欲しがる人達がいる。
石油と言う巨大なエネルギーを持っている中東の国。そこで得られた潤沢な資金が、あのテロ集団に回っておる。あの集団もその「利権」を力で手に入れようとしている。

その結末が見えない中で生きている。生きている間にその結末を知ることは不可能だ。

もつれた糸を解きほどすべをしらない。その「悲劇」だけを眼にし、耳にする。

全てを「縮図」という言葉の中にまとめるのも無意味だ。

そしてなによりも、あの事故が起きない限り人は原発の正体を知らない。知ろうともしなかった。事故がおきてもいまだ「知ろうとしない」人達がいる。

テロもその萌芽はあったのにそれが起きて見ないと人は無関心だ。

さらば如何せん・・・・。嘆くだけでは事は済まないし、進まないのだが。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...