2015年3月12日木曜日

それは「負の遺産」の象徴だと思うのだけど

双葉町のメインストリートにある“標語”を書いた看板。メディアやネットでもよく使われているもの。

「原子力、明るい未来のエネルギー」。

その看板を町は取り壊す方針を決めたと言う。
もう一つある看板、そこには「原子力正しい理解で豊かな暮らし」。


昭和63年と平成3年に、町民に募集をかけ採用されたものだ。

町の撤去理由は「老朽化が進み、危険だから」という事らしい。

前者の標語を書いたのは当時小学校6年生だった人だ。

もちろん今は避難生活を送っているが、一時帰宅のたびにその看板を「書き換えた」写真を作っている。

例えば「「原子力 制御できない エネルギー」。
「脱原発 明るい未来の エネルギー」などと。

書いた当時も、素直に原発を受け入れていたのではないという。しかし、「原発と共存する町」に居て、「原発」に関わる感情は薄れていっていたのではないかと本人は言っているという。

そして事故があって自分の作った標語がなにかと取りざたされる中、「書き換え作業」にあたっているのだと言う。

撤去費用は410万円だとか。

その標語の表彰状を書いた当時の町長は岩本という人。この人も最初は“原発反対”だったとか。町政をあずかるようになって、財政状況を見ていくにつれ、原発誘致にならざるを得なかったとも聞く。

今まだ「話題の人」である井戸川前町長も、7号機、8号機の容認に転じていたと言う。

つまり「原発がなければたちゆかない町」となっていたのだ。

双葉町が撤去に動くということ。それは例えば東京から、反原発運動の人たちが来て、防護服姿で、その前に立って“記念撮影”をしている。それが全国に広められている。そのことへの“反感”。つまり原発の町とされる双葉の負のイメージを無くそうということもあると想像できる。

もう、負のイメージは背負って居たくないというような。

それは、どこかからの「圧力」めいたものがあったのではないかとも。

しかし、あの看板があったことは事実だし、原発をめぐる立地地域の象徴でもあるのだ。

撤去して解体するのかどうかはしらない。しかし、あの看板は双葉町史を物語る一つの時代にあったものとして残されるべきではなかろうか。

撤去しても、「保管」はすべき“負の遺産”なのだとも思う。

看板を撤去して「帰還時期」が早まるわけでも無いし。

例えば、広島に原爆ドームがあるように、この国の歴史の中で、決して忘れてはならない事実があることを、その看板が伝えているとも思えるから。

双葉町のことに余計な口出しをする気はないが・・・。

安易に使いたくない言葉ではるが「風化」ということ。あの看板がある限り「風化」をいささかでも食い止める役割だってあるのではないかとも。
町にとっては辛い事かもしれないが。

今日、テレビ局時代の部下の葬式に行ってきた。享年52歳。あまりにも若い死。僧侶は東日本大震災の事を“説法”の中で触れていた。
そのことは胸に届くようなものでは無かったけれど、「死者とどう向き合うか」は、いつもながら葬儀に参列しておもうこと。メメント・モリ。死を想え。

死者との対話、死者を忘れないということ。

あの看板を“死者”として扱い、“荼毘にふす”ことへのいささかの違和感。

“チェルノブイリ”異聞

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