2015年3月21日土曜日

街場の「正義論」

正義と言う言葉の意味をどう捉えるか。そう解するか。何が正義か。
難しい。正義とはその人それぞれの価値観の問題でもあるし。

人は正義でありたいと思っている。正義を見て行くといろんな正義に突き当たる。

アメリカの正義とイスラム国の正義はまったく相容れない。でも双方が正義を主張し、正義の名のもとに戦争やテロを行う。

相容れない、結論が全く違う「正義」を提示された時、それを考える街場の人はおおかた戸惑うのだ。

思想家や哲学者が難しく語る正義ではない。身近にある「正義」なるものからそれを見てみよう。


今、問題になっている生活保護。中には「ずる」をする人がいる。それを非難するのも正義だ。片や、それを過剰に追及し、生活保護なんかやめてしまえということになれば、“社会の格差是正”という、より大きな正義が崩れてしまう。生活保護が、税金を無駄遣いしようとか、不正受給者を作ろうとして出来た制度では無く、どうしても生活できない人を放っておくのはアンフェアだという発想に立ち戻って、社会全体の正義と公正について議論しないと、すべてが“私憤”に終わってしまう。

生活保護家庭で育った子供が、懸命に勉強して、自分で努力して、進学にあたって奨学金をもらえるようになった。役所は、奨学金の一部を「差し引いて」、生活保護金を減額するという。

規則に従って税金を運用するのは役所にとっては正義だ。子供にとっては奨学金をもらえるように努力したことは正義だ。

立場によって「正義のありかた」が変わる。正義は普遍的なものでは無くなる。

正義を「善」だとしてみよう。

「この道はあいさつ道路です」と電柱に書かれている。通りかかる子供たちは、すれ違う人たちに「こんにちは」とあいさつする。大人も子供を見かけると「おはよう」とか「こんにちは」と言葉をかける。これは善行だ。

社会に子供をめぐる犯罪は起きるようになった。東京のどこかの区では、こどもの「おかえり」と声をかけた男性が不審者として警察のリストに挙げられたという。その男性は“善意”の行動をとったものかもしれないのに。

ここにも、街場の「正義論」が存在する。

「フクシマの正義」という本がある。県出身の社会学者開沼博がものした論考だ。サブタイトルは「日本の変わらなさとの闘い」。

 原発を語り出した識者たちの姿や、その他の福島に関心を寄せる人たちに、“善意同士のぶつかり合い”を見るという。
そして、他者の苦痛に対して「善意」を装うが、自分の身に降り掛かってくると善意は分裂すると分析している。
異なる主張を持つ者が、互いにカルト団体のごとく罵倒しあう。
「被害者」や「弱者」を見出し、鬼の首を取ったように大騒ぎする。
言説の軽さにウンザリすると言っているようだ。

 「変わる変わる詐欺」を繰り返した日本の戦後社会。問題の原因を「悪」のせいにし、自分を安全地帯に置いて免責された気分になり、解決すべき問題の放置を繰り返した。当事者を振り回すだけ振り回して、結局何も解決していない。ここに「フクシマの正義」という視点が存在しているのだとする。

きのうオウムのサリン事件に触れた。
村上春樹はあの事件後に綿密は取材を通して書き上げた「アンダーグラウンド」。

「都会の地下には“やみくろ”が存在する」。そんな位置付けをした上で、「
目じるしのない悪夢。私たちはどこに向かおうとしているのか」。と書いた。

さらに言う。
「私たちは何を求めているのか。私たちはいったい何者であり、これからいったいどこに向かおうとしているのか」。
こも問題提起だけをとってみても20年前と今とは何も変わっていないということか。

ちょっとまどろっこしい「正義論」だけど。

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