2015年3月25日水曜日

「人為」が自然を壊すと言う「悪」

蕗の薹が芽を出している。コシアブラ、タラの芽、ウド・・・自然の恵みが楽しみな季節。

先日南極観測隊に様子を撮ったテレビ番組を観た。
南極の海は4メートルの氷で覆われている。
氷をドリルで人が一人入れる程度開け、中に潜ってみると、そこには水中生物が繁殖しており、何千年も続いているであろう自然そのものの光景があった。

海中から採取されたものからは、何世紀にも亘った自然物の堆積物が見て取れる。
試験管の中に入れられた採取物から、何千年物自然界の営みが読み取れるという。
観測隊はテントで暮らし、糞尿は全部入れ物に入れて持ち帰る。
その地は研究の対象である。

自然を汚すことはしない。


人間に自然を破壊する“権利”はないはずだ・・・。

沖縄では自然が公然と破壊されている。その端的なことが辺野古のサンゴ礁。

翁長知事の「決断」にある一つの断面。コンクリートブロックが下され、その下敷きになるサンゴ礁。それによる自然体系の破壊。

なぜ自然科学者は、その「政治問題」に対して声を上げないのだろう。地元住民任せにするなよ。学者の使命として、それに抗議すべきなんじゃないか。

知事の判断があっても、それに一切耳を貸さない政府。話し合いの余地は限りなくあると思うけど。

エコロジーと言う。なんでもエコ、エコ。そのエコを名付けた人が、安保や経済を理由に「エゴ」の刃をふるう。「エゴ」が人間を支配している。

人間は自然界の本来の営みに対して踏み入ってはいけないはずだ。
自然を破壊してはならないはずだ。

森林伐採は人間がやる。それは森林を育てるための行為だ。間伐することによって木は成長するのだ。

人間の居住区を増やすために、むやみに樹を切り宅地造成をする。その結果、山津波を起こす。

地震は自然災害だ。原発は文明災害だと言おう。そして、原発は明らかに自然をも破壊した。人間の欲望によっての行為としての原発。山林は汚されたままなのだ。線量は月日の経過とともに、飛散して低くなっていくとはいえ。

あの年、山菜を口にすることは出来なかった。春の味覚は失われていた。


記憶が薄れる、忘れる。それを「風化」と言うならば、僕は「風化」という言葉を封印する。

なぜなら「風」に対して失礼だからだ。

あの原発が爆発した時、風は北西方向に吹いていた。もし、東からの強風だったら、郡山は避難を余儀なくされていた。北西の風だったために飯舘は大きな被害を蒙った。県境の宮城県の丸森もそうだ。

郡山はそれこそ「神隠しされた街」になっていたかもしれない。

どこに逃げる・・・。東北道は損壊していて通行できない。4号線しかない。北か南に逃げるなら。
当然、弟や妹のいる東京を目指すだろう。

しかし、4号線は大渋滞。車はまったく動かない・・・。そんな光景を想像してしまうのだ。

三陸地方の防潮堤。万里の長城のような巨大な石垣。

東京オリンピックのために神宮の森は壊される。野鳥の居住空間は少なくなる。
銀杏の光景、銀杏の景色も無くなる。

自然を破壊するということ。それは「悪」なのだ。

週に一回、「仕事」のために南相馬に行く若者がいる。飯舘を経由していく。
その若者が昨夜も言っていた。

「野積されたフレコンバッグと飯舘の自然の光景は全くマッチしません」と。

自然を破壊することによって、そこに浸食することによって維持される現代文明。それが「悪」だという認識を持たない“経済成長”・・・。

便利さと不便と。もう一回考え直す時としてのあれから5年目の春とでも言おうか。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...