2015年3月10日火曜日
反省と謝罪と寛容と
今日は東京大空襲のあった日である。10万人の東京府民が亡くなった日である。70年前・・・。
東京の下町と言われるところが集中的に空爆され、焼夷弾、機銃掃射によって、民間人が犠牲になった日だ。
東京への空襲はそれまでもあったが、こんな大規模な空襲は無かった。これで「息の根を止めよう」とする空襲だった。
隅田川は累々たる死体で埋まり、その人たちは荼毘に付されることもなく、横たえられていた日だ。
この日、東京には居なかった。姫路にいた。だから直接逃げ惑っていた経験は無い。
もちろん、姫路も大空襲に会い、機銃掃射を逃れながら逃げ惑ってはいたが。そこで死者の多くを見たが・・・。
この時、なぜ日本は戦争を終わらせるという道を選ばなかったのだろうか。選べなかったのだろうか。首都東京は壊滅した。一面が焼野原。
アメリカの意図は、日本国民に恐怖感を与えることであったとも言われる。
しかし、その恐怖は口に出せなかった。
この時止めていれば、広島も長崎も無かったのに。
民間人を打ち殺した米軍兵士は、それを知って「謝罪」の言葉を口にした。
日本国民を守れなかったことについて、日本の国の指導者から謝罪の言葉は無かった。
戦争の反省すらもだ。
ドイツのメルケル首相が来日した。彼女は東ドイツの出身。戦争の後遺症を背負っているはず。
ドイツはナチスの戦争を反省した。そしてその犯罪行為があったことを認め、各国に謝罪した。
<過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目である>
統一ドイツ後の大統領に就任したワイツゼッカーの言葉。その言葉は、精神はドイツ国民の中に根付いている。彼らは“盲目”であることを拒否したのだ。
そして戦勝国であるフランスは寛容の精神をもって、謝罪を受け入れた。
メルケル首相は日本の原発事故にも学んだ。脱原発の道を選んだ。多くのドイツ国民はその選択を支持している。
少なくとも福島の事故は、ドイツという国を目覚めさせた。
そのメルケル首相と並んで立った安倍は、臆面の無く「再稼働」を言う。
過去の戦争への“反省”を述べた村山談話をすら変更しようとしている。
二人とも同年齢のはず。あの戦争を知らなかった世代。メルケルは過去に学んだ。過去を学んだ。
安倍は何かを学んでいるのか・・・。
70年前どころではない。4年前にあったことからも学んでいない。
彼我の指導者のことを考える。その年月が長かろうが短かろうが、過去に目を閉ざしている。だから「現在」に対しても盲目なのだと思う。
東京大空襲で亡くなった人たちの遺族は言う。そして謝罪するアメリカ兵に寛容のこころで向き合っている。
「戦争はしてはならない」と。その悲痛な声に“安部”は耳を傾けない。
戦争は必ず民間人も、子供も道連れにする。
戦後、1年足らずで東京に移住した。まさに廃墟のあとに。そこに建てられたバラックの「復興住宅」の一部屋に身を寄せていた。お化け煙突の残滓が見え、まだ瓦礫だらけの町。
焼け跡から鉄くずや釘を拾い集めるのが子供の“役割”だった。
上野の地下道には戦災孤児が溢れていた。打ちひしがれたように復員兵が復員服を着て街をさまよっていた。
焼夷弾で焼かれた姫路の家は広かった。遊べる庭もあった。姫路城への坂道が遊び場だった。気が付けばバラックの一部屋に一家6人・・・。
4年前にあった福島の光景と重なるのだ。
なぜ戦争があるのか。戦争とは何か。小学校に入ってから、授業では教えてくれない「戦争」について、子供なりに学んでいた。親が言ったわけでも無い。
それを「知らなくてはいけない」という想いが湧き出ていたからか。
とにかく今日は東京大空襲があった日。10万人の命が一瞬にして消された日・・・。70年前のこと。
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