2015年3月18日水曜日

人生の持ち時間

かつて「人生50年」と言われていた。
織田信長が好んで舞った謡曲「敦盛」の一節。

“人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
             ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか”

若いころ、たしか会社の定年は55歳だったような記憶がある。今は60歳定年を延長する動きとなった。

人は必ず死ぬ。滅す。

何歳まで生きるか。それを寿命だと言う。何歳まで生きるか、生きられるのか、生きねばならないのか。自分ではさっぱりわからない。もし、わかったとして、例えば余命何年と告げられたとして、それとどう「対峙」出来るのかもわからない。凡庸な高齢者だから・・。

東日本大震災。一瞬にして幼子も、子供も、若者も、高齢者も、さまざまな命が失われた。その事を「得心」出来る言葉は無い。

多くの死と向き合った東北の若者たちは、そこにあった「無常」を乗り越えて、もしかしたら70年生きていたとしても「学べなかった」ことを数年で学んだ。

そして立派に成長している。昨日書いた菅原彩加さんもそうだ。

人生に持ち時間というものがあるのかもしれない。そんな気がしてくる。
持ち時間を有意に使っている人もいる。まったくもって無駄に使っている人もいる。

持ち時間・・・。将棋や囲碁にも持ち時間というのがある。スマホにも“持ち時間”があるようだ。電池の寿命のことだけど。買い換えることで寿命を延ばすような“設計”になっているとしか思えない。買い換え重要で、会社は潤うという仕組み。どうもパソコンにも“持ち時間”があるような気がする。

原発にも持ち時間があるようだ。40年経過したものは廃炉の対象になる。廃炉作業には核燃料の取り出し含め、また何十年という年月を必要とする。

おおかた、原発一基の“持ち時間”は、人の一生に相当するということになる。

中間貯蔵施設の持ち時間は30年と言われている。福島の廃炉には40年かかるといわれている。すべて「根拠」は明白では無い。

そういう教育がされはじめていると言うが、20年後、廃炉作業に当たれる人は果たしているのだろうか。的確に対処し得るという意味でも。

使用済み核燃料。それの地中深くでの保管、保存。何百年、何千年先まで「安心」は出来ないという事。

失われた20年という言葉がある。誰が名付けたのかわからない。それは流行言葉とされ、自虐的な意味でも使われる。

1961年以降の20年だという人もいる。バブルが崩壊した1991年からだという人もいる。その時期に生まれた人たちは、ロストゼネレーション世代だと言って、世を嘆く。

失われて20年。いずれも「経済成長」のこと「それの頓挫」を指しているようだ。

そして、原発に必要性を言う人達は、必ず「経済成長のために必要なエネルギーの確保」だという。

あまり意味を持たないように思える「失われた20年」という言葉に“あやかる”ならば、原発事故がおこした、多額のコストロス。何兆円かかるかわからないような「負」をどう捉えているのか。

少なくとも、避難させられている福島県人は、何十年の「失われた時」を持ったということか。

20年・・・あと16年。その失われた時間は取り戻せるのか。無い。

沖縄県民も、原爆被災者も、すでにして「失われた70年」を持っている。
勘弁してくれよ。失ったままだぜ。

人生の持ち時間。その持ち時間をどういかしていけばいいのか。どうも昨晩の「夢見」が悪かったような気もして・・・。それを引きずったままの今日の妄言。

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