お彼岸が終わった。花で満ちていた墓地にはまだその残滓がある。
お彼岸の土日。各所で墓参の人が絶えなかった。
日中の立ち入りが許されている地にも、墓参の光景があった。
「これが最後の墓参りかもしれない」。大熊の人は言う。
そこが中間貯蔵施設の候補地になっているから。
「地方」と言われるところには、各所に墓地がある。個人の家の裏山にも墓がある。先祖代々・・・。
だから「父祖の地」と捉えるのだろう。
彼岸と比岸。行ったことがないから彼岸がどういうところかはわからない。
「死」によって区分けされているところなのか、同化されているところなのか。
墓地とは何か。骨を埋めるとは、うずめるとは何か。
精神性だけで理解できるものか。骨というものが持つ意味とは・・・。
あれから4年が経って、津波に襲われたところから一片の骨が見つかった。
その人は特定された。
遺族にとっては、その一片の骨が、亡くなったその人そのものだ。
墓というところは、死者が眠る場所というよりも生者の心の拠り所なのかもしれない。
位牌と墓。それは日本人の死生観、宗教観からすれば、大きな存在なのだ。
御先祖様とて然り。
墓を失うと言うことは拠り所を失うと言うことにもつながる。
大熊では、比較的線量の低い地域に、帰還可能地域に共同墓地を建設すると言う動きがある。
しかし、代々、身近な存在としてあった墓を墓所を移すことに違和感を覚える人も居る。
「これが最後の墓参りだ」と言った人も共同墓地には賛同しない。
原発事故の被害は“死者”にも及んでいるということ。
手向けられた彼岸の花は枯れる。
制限区域の人は墓で手を合わせることは出来ても、花も供養の品も置けない。
彼らの心情は慮る以外にないのだが・・・。
すでに、世の中は、花の話題は彼岸花では無く、桜花に移ったようだ。
桜と花見の話題が連日テレビを賑わす。新聞のコラムも恰好な話題とする。
それが何故だかは回答を持ち得ないが、大方、墓地には桜がある。
満開の桜が墓を覆う。
東京の青山墓地は桜の名所だ。瀬川家の墓がある都営八王子霊園にも桜が植えられていた。
野仏をまつったような小さい墓にも桜が植えられている。事務所の近所の寺の墓所にも桜が咲く。カトリック墓地の桜も見事だ。眼下にも桜並木がある。
勝手に想像する。
桜の命は短い。短いがまた来年咲く。例年咲く。
人は骨になったとしても、またなんらかの生命となって「生きる」ということの冥示なんだろうかとも。
「3・11」後、常にあの地の桜を想う。夜ノ森の桜の記憶をたどる。
桜花 命いっぱい咲くからに 命をかけて我眺めたり
岡本かの子の句をかみしめる。桜の命とかの子の命。命二つの“姿”を見るからだ。
5年前、当たり前のようにやって来た桜の季節。あの時桜花に思ったことを、また反芻している。
しばらくして、この界隈にも桜が咲いた時、その下で何を思うのだろうか。それを考えるといささかの「不安」さえよぎってくるような・・・。
2015年3月23日月曜日
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