2015年3月30日月曜日

92歳から送られてきた「歌」

東京の広尾に住む90代のご夫婦と交流がある。交流と言ってもそれは家人のことではあるが。
それも顔を合わせたのは数回らしい。電話と手紙の交流だ。
きっかけは初台当時の“犬”を介してのことだ。

92歳のその御婦人、その人のお姉さんが初台に住んでいて、その方が犬を飼っていて、そのご縁から始まり。その方が亡くなってから、妹さんである92歳と“濃密”になった交流とか。

その姉妹の一番下の妹さんは、劇団四季の有名な女優さんだった。名前を藤野節子という。

その御婦人がたは満州に生まれ育った。幼少時、満州事変を体験し、太平洋戦争が始まった頃に帰国した。親が満鉄に勤めていた人だという。

帰国後、寄宿舎のある宝塚歌劇団に入った。退団後は電通に勤めていたという。

いわば、彼女の「ふるさと」は満州だ。そして、退職後は中国残留孤児を支援する活動に姉妹してかかわっていたという。
ご夫婦とも癌に罹患しており、抗がん剤治療を受けていると言う。副作用で口内炎を発症し、手先が指がひび割れており、台所仕事もままならないと。


昨日、その人から手紙が来ていた。便箋は包装紙を使っての手作り。
一筆書きの便箋数枚に、病状の進行具合や現況が記されていた。

「もうこんな字しか書けなくなりした」とも。

その便箋には、なぜか五線譜が書かれていた。定規をつかって五線を引き、しっかりした音符だ。4小節。楽譜の下に歌詞が記してある。

♪ここは、お国の何百里、離れて遠き満州の・・・♪と。

僕のよく知っている歌だ。なぜか軍歌はほとんどを知っているし、歌える。その中でも一番気になっている歌。子供の頃、親が教えてくれたのだろうと思うが、物語になっているその長い歌の全部をノートに書き留めていた。
こんな歌詞だ。なんでこんな記憶を呼びさまさせてくれたのだろうと思いながら、思い出すままに記す。

ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
  赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下
思えば悲し昨日まで 真っ先駆けて突進し
  敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか
ああ戦いの最中に 隣に居った我が友が
  にわかにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄りて
軍律厳しい中なれど これが見捨てておかりょうか
  しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾の中
折から起こる吶喊(とっかん)に 友はようよう顔上げて
  御国のためだかまわずに 遅れてくれなと目に涙
あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
  それじゃ行くよと別れたが 永の別れとなったのか
戦い済んで日が暮れて 探しに戻る心では
  どうか生きていてくれと 物など言えと願うたに
虚しく冷えた魂は 国へ帰るポケットに
  時計ばかりがコチコチと 動いているのも情けなや
思えば去年船出して 御国が見えずなった時
  玄界灘に手を握り 名を名乗ったが始めにて
それから後は一本の 煙草も二人分けてのみ
  着いた手紙も見せ合うて 身の上話繰り返し
肩を抱いては口癖に どうせ命はないものよ
  死んだら骨を頼むぞと 言い交わしたる二人仲
思いもよらず我一人 不思議に命永らえて
  赤い夕陽の満州に 友の塚穴掘ろうとは
隈なく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって
  友の最期をこまごまと 親御へ送るこの手紙
筆の運びは拙いが 行燈の陰で親たちの
  読まるる心思いやり 思わず落とすひとしずく


日露戦争時に作られた歌だという。それはまさに軍歌ではなく反戦歌だったと思っている。「異国の丘」という戦後流行した歌もそうだったと捉えている。

なぜ、今、この時代にその92歳が万年筆でその歌を書いて送って来たか。

時折、電話で「戦争はもう懲り懲りだ」と言っていたという。
幼少時の記憶としての、「ふるさと」を懐かしんでの満州か、それとも今の時代の空気を戦争経験者として感じて書き送ってきたのか。それはわからない。

僕にとっては話に聞くだけの人であり、顔も見知らぬ人だが、震えるような字での4小節の楽譜にうたれた・・・。

その姉妹は宝塚で原爆を体験している。

今朝の新聞の投稿欄にあった一首。
“「ひろしまのピカ」のとなりに「ふくしまからきた子」が並ぶ児童図書室”

満蒙開拓団として彼の地にわたった双葉郡の人は多いと聞く。貧しかったが故にと。

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