2015年3月5日木曜日

・・・だから「風化」ということについて

結局、きょうも倉本聡の事を書いている。“風”についてきのうは書けなかったからだ。

パンフレットにある作者の言葉。

「本来、日本の漢字には風という字が溢れ返っている。
風土・風物・風景・風格・風雅・風光・風潮・風雲
風趣・風韻・風水・風情・風災・風雪・風霜・風伝
風摩・風聞・風紋・風来・風浪・風波・風候・風流

日本人が本来自然と共に生き、風のもたらす香りや音に敏感にナイーブに接し続けてきた、その伝統の重みの証しだろう。だが、今この国に流れる言葉は、風災・風評・そして風化。こうした言葉だけが流れるのは悲しい。

風化とはそもそも、1千、1万、1億年をかけて、岩が石となり、石が砂となり、砂が塵となり風に飛散する。そうして遠大な時をかけての、長大な宇宙の営みである。それが、この僅か4年足らずに、福島の事故に関してこの国に起こってしまったとするなら、宇宙の倫理に明らかに反した、これは悲しすぎる出来事である。だが、その出来事が堂々と進んでいる」。


この言葉を読んで、また戸惑う。

風化ということを自然現象としてとらえるなら、そうだろう。風化と言う言葉の中に、いわば“物理的”な現象と人間の“意志”だ「同居」しているから厄介なのだ。

それにしても風化。風化とは「忘れる」ということにもつながる。「逃げる」ということにもつながる。

「フクシマ」の風化は、もうとっくに始まっている。

倉本の世界に例えるなら、誰かが大きな削岩機を持ってきて、自然の為せる業ではなくて、人為として岩石を打ち砕き、塵にして、飛ばしていってしまっているということだろうか。

誰が削岩機を持ってきたのか。一つは国家だ。そして曖昧な言い方だけど、時代の「風」だ。風という空気だ。

そういう意味では、広島も長崎も沖縄も水俣も、そして70年前の戦争だって「風化」している。いや、させられている。

「風化」を止めるには「風」を変えなければならないのだ。

なぜか人は「スピード」を「速さ」を求める。その風潮はとみにましている。
「止まる」ということを潔しとしなくなった。

スピードを必要とするところを間違えている。事故処理、避難者支援、それにはスピードが必要だ。しかし、そこにあるものは「遅々として進まない現実」。

風、風、風・・・。今この国を覆っている風、強風。
その風に立ち向かうのは息が詰まるくらい、そう台風の中で呼吸することの、吹雪の中で呼吸することの難しさにも似ているのかもしれない。

「風のガーデン」。死を迎える一人の医師を主人公に、彼を取り巻く家族の物語。

そのドラマの音楽はノクターンだった。平原綾香だったか。歌っているのは。彼女が歌ったノクターン20番は「カンパニュラの恋」という曲名になっていた。

カンパニュラ。宮沢賢治の銀河鉄道の夜の副主人公の名だ。ジョバンニの親友の。

倉本聡が塾生に与えた言葉があるそうだ。

「木は根によって立つ。されど人の眼に触れず」。

木の根に風化はあるのだろうか。木とは自然の“象徴”だ。そして、人は「根」という言葉を好む。

ならば、いま、我々が考えなくてはいけない「根っこ」ってなんだろうか。

飛躍するようだが、昔、「若い根っこの会」というのがあった。東北出身の人が立ち上げ、高度経済成長期を支えた集団就職の子どもたちの集まりがあったということ。たぶん、今はもう無いのだと思うけど・・・。

時代の移り変わりで風化した運動だったのかもしれないけど。

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