2012年5月2日水曜日

主よ、みもとに・・・・

主よ御許に近づかん
登る道は十字架に
ありともなど悲しむべき
主よ御許に近づかん

参列者全員で歌っていました。亭主もよく知っている聖歌。タイタニックの映画を見たわけではありませんが。メロディーも含め感動する聖歌です。

神父が静かに語りかけます。
「聖パウロ 林 平蔵さんは神に召されました。天に召された彼は、聖人として、皆さまのことを見守っていてくれるはずです」。

死とは永遠の命をさずかったということだ。そんなようなことも言っていました。

きのう、東京の小さな教会での葬儀のミサと告別式。
亡くなった林平蔵さん、郡山での長年の友達でした。79歳。誤嚥性肺炎。いくつかの疾病を経ての死因。

会津の豪商林平蔵の末裔です。飲み友達であり、ゴルフ友達であり、茶道の門下生でした。郡山での会社員生活を終え、東京での悠々自適の日々だったのですが。

献花。棺に納められて彼の寝姿は、かつての偉丈夫を思わせるものではなく、小さくなっていました。でも、安らかな寝顔でした。

家族に看取られての死。親類縁者や多くの知人が集まっての別れ。

オルガンに合わせて歌われる聖歌を聞きながら、宮沢賢治の「永訣の朝」を思い出し、大船渡市のカトリック信者の医師、山浦玄嗣さんの話を思い出していました。

数多くの「死」に出会ってきました。別れを惜しみました。無常を嘆いたことも多々あります。
3・11以降、「死」というものに対して、なぜか“敏感”になっています。

山浦医師の病院も津波に襲われました。手を差し伸べて救えた人もいれば、救えなかった人もいたということです。敬虔な信者である山浦医師は、浸水した家の中から服を取り出し、翌々日の日曜日のミサに行こうとしたという話を聞きました。教会も被災していてミサどころではなかったとかも。

山浦医師は言語学者でもあります。彼のやり遂げた大仕事は、「ケセン語大辞典」を編纂し、難解な聖書を地元の言葉、「ケセン語」に翻訳することでした。その翻訳した聖書は、水に浸かりながらも復元出来たということです。

なぜ彼が「ケセン語訳」の聖書を作ろうとしたのか。そこには井上ひさしの「吉里吉里人」に書かれた東北独立国家のスローガン「俺達(おらだ)の国語は可愛(めんご)がれ」の実践にあったということです。

ほとんどの場合、それが交通事故であっても、多くの生者が死者を看とり、死者とその家族を支えてきました。
一挙に波にのまれた万という数の死者。その死者を生者が支えるには余りにも多すぎます。看取ることも出来ない。

死者は語らず。無念の死であったかどうかはわかりません。

行きつ戻りつしますが、山浦さんがケセン語の聖書を考え付いたのは、「おらだの言葉」という思想があったかたではないかと。

聖書の言葉は難解です。今はそれでもかなり平易に書かれていましたが、昔の聖書は「神は何々し給う」のような文語体。
そもそも渡来の話はともかく、昔の武士階級。言ってみれば階級が上の教養ある人たちのために書かれたような趣があった。もっと身近な言葉にしないとその「教え」は伝わらない。日常会話に使われる言葉にしてこそ、その意義がある。そう考えたのではないでしょうか。

平ちゃん(平蔵さんをそう呼んでいました)の葬儀。神父の言葉はある程度平易でした。だからこそ、彼の死を考えることも出来ました。

平ちゃんとの間には家族も含めた偶然の縁もあった。彼が「ふるさと郡山」の“被災”をどう思っていたか。電話でちょっとだけ話した時もありましたが、ゆっくり話し合ってみる機会がなかった。悔やまれる。人の死は、必ず生者になにかの悔恨を残していく。そんな気が今日もしています。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...