原発20キロから30キロ圏内の人達が避難所にしているビッグパレット。
友人のフルート奏者、佐藤眞人さんの慰問コンサートをやってきました。
段ボールで囲まれた居住空間。その隙間の中で。
数曲演奏。その後リクエスト。配った紙に書かれた数曲。演奏に興味を持った方々からリクエストの声が。
「川のながれのようにをお願い」。吹きます。知らず知らずに歌声になって。
「この道」。すすり泣きの声が聞こえてきます。段ボールの陰から。
次々とリクエストの声が・・・・。
佐藤眞人さん、およそ一時間心をこめての演奏だったと。
音楽の力、避難所生活の人達にいささかなりともお役に立てたか。
「また来ます」「是非お願いします」。
いつ終わるのか見当もつかない不便で耐えがたいような日々。音楽に合わせた手拍子が、力強く感じられる。
避難所の人たちから何かを分けてもらったような気持ちになる。
一率に円を書いて避難させた菅のバカヤロ~~~。そう彼らは言わない。
こんな生活を強いている東電のバカヤロ~~。そうも言わない。
束の間の憩いに心と身をゆだねている・・・。
長い音楽家としても初めての体験。眞人くん。また、やるぞと気を引き締めていました。それがボクに出来ることと。
やがて皆さんが富岡や川内に帰ったら、そっちに伺ってコンサートやりますから。
大きな拍手をもらってきました。
人災。川の流れのようにと受け入れるわけにはいかず。数週間前なら、NHKの夜8時。歌謡コンサートを家のテレビで楽しそうにみていた人達・・・。
2011年4月5日火曜日
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