2011年4月28日木曜日

”一つである”ということ

ニッポンは一つだ。団結だ。みんなの力を信じてる・・・。正確なセリフは覚えてないが、ACのCMだけではなく、メディアからは「日本は一つだ、一つだ」という声がやたらと聞こえている。

たしかに、多民族国家ではない、一応単一民族国家なのだから。ひとつなんだろうけど。

郡山市長が、放射線量の多い小学校や保育所の校庭の土砂を削って、それを市内の産廃処分場近くに埋めようとした。校庭の放射線量はみるみる下がり、校長や父兄は喜んだ。

その放射能を含んだ土の受け入側になった処分場近くの住民が怒り出した。なんで、そんな危険な物を持ってくるのか。ここにも子供はいると。
事前に説明がなかったというが、これじゃ事前説明してたって、受け入れてくれるはずは無い。削りとられた汚染残土は校庭の脇にビニールシートかけられたまま山積みされている。

どっちがいいとか悪いとかの問題じゃないと。要は危険と思われる物は身近から遠ざけたいってことだけ。心理。真理にあらず。

市長も市役所も頭かかえているらしい。汚染残土の処理めぐって郡山市民はひとつではなくなった。

東電による、政府による”人災”は、県内のあちこちの町村がそうであったように、一つであるべきだった地域社会を二つにも三つにも裂いていく。

東北六県という一つのくくりがあった。東北地方は、言わば、東京という大消費地域への生産拠点。農産物から始まって、工場や、それこそ電気などなど。酒も然りかも。東京は東北という生産拠点によって潤ってきた大消費地。

生産と消費、需要と供給。本来循環した一つのサイクルであるべきシステムがこの原発災害によって壊れた。

一つではなくなったような。

本来は、いや、当然一つであるべき政府の対策本部とやら。みんなバラバラ。政権内も一つではないし。

東北内部でも然り。宮城や岩手。地震、津波の被災地。多くの人や家を無くした哀しみから立ち上がり、”復興”という言葉が前面に出てきた。人々は立ち上がろうとしている。

原発進行中の、いや、その実態は全く不明の中、見えざる敵との戦争に疲れ果てているような福島県民。

そう、進行中。復興という言葉はまだまだ先なのかも。

東北という一つの括りがほころびることを恐れる。

その原発。一号機では「水棺」という作業が始まった。その効果をめぐって学者の意見はバラバラ。それでいいのじゃないかという意見もあれば、無意味、危険という意見もある。

学者にとっても未知の体験。だから余計に皆、勝手な意見をいい、それを耳にした人達を悩ませる。信じる物が何も無い。専門家の意見は、何にしても、放射線の危険度含めて、一つではない。

様々な見解を咀嚼して、あとは、それぞれの人が自分で判断しろと言うことか。

「一つであること」。そんな簡単な事が、実は一番難しい。

今は強い北風。大気にある放射線物質はどこに流れていくのか。

”汚染”の風評を他所に、先週は東京から親戚筋の若夫婦が郡山に遊びにきてくれた。街中をふらついて帰っていった。
来週は弟夫婦が遊びに来る。避難所にいる子ども達に何かを持っていってあげたいと物色中とか。

ゴールデンウイークを”口実”に郡山を”脱出”する家族も多いと聞く。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...