2011年4月15日金曜日

この国の姿 その19

震災が発生し、原発が大事故を起こし。通信環境が復活してから、時折は目先を変えているものの、この国の姿という題名で日々綴ってきました。もちろん、これからも綴っていきます。「この国の姿」。もちろん司馬遼太郎の「この国のかたち」を摸したものです。司馬遼太郎は、彼が書いた時代を、その土地の歴史などをまじえながら日本という国のかたちを的確な目線で見ていた。

亭主の目線はやぶにらみ。ただ、「姿」としたのは、人間模様を語りたかったから。この国とは、ニッポンという国の事を指している場合もあり、自分たちが住んでいる土地でもあり、町でもあり、家庭でもある・・・。「この国」という表現にいささか揶揄的意味合いが込められているとすれば、まさにその通り。

今、この国を統治している人達は、日本という国を統治しているに非ず。

「しばりょう以来、我が国を「この国」という言い方が流行ってますが、好きくないです」。ツイッターに書き込まれていました。書いた人はもちろんわかっています。別にこの国って言い方が流行ってるとは思ってもいないけど。
好きくないです。これって日本語じゃない。若者言葉としてはあるだろうけど。正しい日本語を伝えていかねばならない年代の人が、こんな言葉遣いを平然としてしていること。それこそが「この国の姿」の典型かと。

原発周辺、10年、20年は住めない。菅が言ったとか言ってないとか。ばかばかしいにも程がある。震災後東日本は壊滅すると言った人、それがいつか、東は東でも東電にすり替えられて。

「私が言ったのではない」。そう菅は言ったという。それじゃそうしよう。ならば、なんでそれを言った人を諫めなかったのか。叱責しなかったのか。うなずいたのなら言ったも同然。語るに落ちるってことか。

思いつきとしか言えないような指示を繰り出す菅。思いつきのようにいろんな組織を立ち上げ、なにも機能してない政府・官邸。やたらと参与なるもの任命し、役に立ってない人事。
参与とは、言ってみれば”お傍用人”。都合のいいことばかり耳に入れ、菅に安心材料を与え、人心を惑わす奴らとしか思えない。

言葉の重み、言葉の意味、言葉の影響・・・。かつて日本の宰相は一語一語言葉を噛みしめ、それの意味を考えながら物を言った。いま、この国の宰相と言われている人は、軽い言葉をくりだすことしか知らない。

まさのこの国の姿である。

復興構想会議なるものが発足。”箱庭造り”を述べた菅。原発問題は除外してと言った。今、この国で人心が荒廃し、何百年かかっても取り戻されないような人災を起こしている元は原発。原発事故に対処出来なかった菅の力量。出席者からは原発外しに異論が出たという。当然。
しかし、なんかこころもとない会議のメンバー。顧問かなんかの梅原猛さんが言ったという。「天災、人災に加えて文明災だと」。「原発が人間の生活を豊かにし、便利にする、その文明が今裁かれている」と。せめてもの救い。

哲学者よ、宗教家よ、文学者よ。もっと、もっとこの国の今を語りなさい。「こころ」を語って欲しい。今、この国の人々は生きる指標を道標を失いかけているのだから。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...