2011年4月25日月曜日

信頼出来ない人の下で生きていくっていうこと

統一地方選。またも民主は「大敗」でした。もはや「頽廃」した政党かとも。

信頼を無くし、支持も減り、信用できない政権のもと、なにしろ、かにしろって指示され、命令され、右往左往、生活を翻弄される人々。

信じていない人から、何かを言われて、黙々と、唯々諾々とそれに従わねばならない哀しみ。

首相はおろか、政権自体が信を失っている。避難地域の解除めぐる枝野発言。いわき市を除外。「いわき市長から強い要望があったから」と記者会見で言った。いわき市長は抗議。すると、訂正、謝罪。

この不様さにはあきれるばかり。たしかにいわき市長は「屋内避難地域」の時におかしいと抗議したよ。特にテレビ使っては。だから県民は思った。「おかしい」と言えばどうにかなると。南相馬の町長も声は大きかった。「NHKさん助けてくださいよ」と連日言った。

誰かが大きな声で抗議すれば、おかしいと言えばどうにかなるんだ。だったら飯舘の村長も、浪江も川俣も葛尾も言えとなる。町長、村長の苦悩は深まる。

少なくとも、国や行政に対しての、政権にたいしての不信感は強まるばかり。信じていない、信用出来ない、信頼していない。そんな政権の、それを「国」というなら、それを甘んじて受けなくてはいけない民百姓は・・・・。

福島県知事はいかに。東電の社長に怒りをぶちまけたような顔して、泣いてみせて。あげく「国と各首長と住民でよく話し合って」。官邸にのこのこ出かけて言ってなんとか会議っていう意味不明の会議に出て、「現在進行形だから、復興についての意見は持ち合わせていない」と仏頂面。だったら、最初から、こんな変な会議のメンバーになることを拒否すればよかった。東電の社長の面会は何回も”拒否”してるんだから。

「知事は何もしてくれない、何もしていない」。そんな声が最近多くなっている。

誰の言うことを聞けばいいのか。原発について誰が正しいことを言っているのか。誰を信じればいいのか。それがさっぱりわからなくなっているのが福島県民。だから、たとえば放射能情報だって、数字だって、発表されるものを「信じてない」となってしまった県民。そんな不安定な感情が住民同士や家族の間にひろがって行ったら・・・。ぞっとしてきます。

鰯の頭も信心から。なんてことを昔の人は言った。津波の後から持ちだしたのが先祖の位牌。警戒区域に入って持ちだしたいのが先祖の位牌。したいことは墓掃除。信心深いのです。民草は。信心の足るものが欲しいのです。

そして、人間を信じていた動物たちが、そう、あの宮崎の口蹄疫の時のように、あの嫌な言葉。「殺処分」にされようとしている20キロ圏内。殺処分と餓死しか選択肢にない牛や馬や豚。行政命令によって殺処分に向かわなければならない獣医師達の心中やいかに。動物の命を守ることを職業としていたのに。

じゃ「自分」は信じられるか。無責任な情報飛び交い、予報、予測飛び交い、余震のアラーム音に飛び起きる毎日。見失いそうになる自分をどうやって確立するか、冷静さを、正常な思考を保てるか。日々、「自分」と戦っている人も多いはず。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...