2013年1月22日火曜日

さまざまな「死」

アルジェリアの事件、やはり7人の日揮関係者が亡くなっていた。3人がまだ不明だという。

きのう書いたこのブログを見て、弟が便りをくれた。やはり酒を酌み交わした仲だったらしい。短い文章に込められて彼の無念さを思う。
彼は言う。酔えない酒を毎晩飲むことになるという悲しみ。と。

日揮は亡くなった社員の氏名を公表しないという。政府もそれを尊重すという。
しかし、この国のメディアは執拗に公表を迫り、探り当て、遺族にインタビューを試みる。

その事に何の意味があるのか。やがて帰国するその人達の葬儀の場に行って、何かを聞き出そうとする。それを伝えることに何の意義があるのか。

人の死が、単なる興味の対象でしかないと、ネタとして消費されるものでしかない「死」に対して無感覚になっている“職業病”と。

氏名を公表することが追悼になる。そんなことを公言した大手新聞社の幹部もいるらしい。

遠い異郷の地で、不遇な死を遂げねばならなかった人。「整えられない死」、それに対して「畏敬」の念は無いものかと。

あの大震災と津波で、多くの、万を越す「整えられない死者」を見て来た。
その人達には「A」とか「B」とかいう記号では無く、名前があり、人生があった。そこに立ち入った取材もあり報道もあった。

伝えるべき死者の名前と伝えるべきでない名前もある。

今朝、社友会から訃報のメールが届いていた。78歳。よく知っている先輩。こたえる。
なぜか周りに死者が増えているように思えてくる。

映画監督の大島渚さんが逝った。昨夜が通夜、今日が告別式。多くの報道陣が築地本願寺に集結している。参列した“有名人”の次々とインタビューする。多くが真面目に答えている。
そして恐ろしいほどの“愚問”が発せられる。おそらく芸能レポーターという、何も考えていない奴らだろう。「大島監督に、何と言うお別れの言葉をかけられましたか」。

もし、それが仮にボクであったら、即座に言うだろう。「バカ野郎。そんな愚問に応じる必要はない。これは俺と亡くなった人とだけの問題なんだ」と。

人は多かれ少なかれ、それぞれの「死生観」を持っている。もし持っていないのなら、今からでもいい。「死」について考えるべきだと。絶対に訪れる「死」を想うべきだと。

この事は塾でも彼らに問い、語った。生とは何か。死とは何か。それは対極に位置するものか、同居しているものか。循環しているものなのかと。

人の死をもすら考えることが出来なくなっているような今のこの日本。

今朝の新聞に小さく載っていた。赤星建彦さんという人の死が。ミュージックボランティア協会というのを立ち上げ、遺児たちを応援していた人。

そして数日前には101歳の詩人、柴田トヨさん訃報。平易な言葉でものの核心を突いてくる。3・11後に書かれて詩を付す。

<被災地のあなたに>  柴田トヨ
最愛の人を失い
大切なものを流され
あなたの悲しみは
計り知れません
でも 生きていれば
きっと いい事はあります
お願いです
あなたの心だけは
流されないで
不幸の津波には
負けないで

いろいろな人の死が、さまざまな死が重くのしかかってくるような。
あらためて、「メメント・モリ」。

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