2013年4月6日土曜日

「蛇の生殺し」ということ

蛇年、巳年だからと言って蛇を例えに出すのも好ましいことではありませんが・・・。

“蛇の生殺し”という慣用句があります。

半死半生の状態にしておくこと。物事にある程度まで手を付けながら決着を付けずに置くことという意味です。

今の「福島」は、まさに、その生殺し状態。

昨日の国会。衆院予算委員会。原発問題の“集中審議”が行われていた。
そこそこ見ていました。聞いていました。そして・・・疲れました。

「福島」という言葉が飛び交っていました。それのほとんどは1Fの現状など発電所(だった)のこと。そして、「福島の事故に見られるが如く・・・」という枕詞の福島。これからの原発、再稼働の事・・・。その安全基準などの話し。

一番の被災者であり、「棄民」と自称するまでになった15万人にも及び人達のことは余り話題にならない。議論のテーマにされない。ならない。

そうなんだ、もう「福島」は終わったことなんだ。再稼働に向けての「検証材料」なんだ。


原発事故の避難者の避難地域の「区域再編」なるものがおおよそ出来あがった。

この再編、誰が望んだことなのか。そこに住んでいた人達が望んだことなのか。

再編で、区域分け、住民が“分断”されていく。住民同士の“対立”にまで進んでいる。
その分断とは、バリケードによる物理的分断ではない。人と人との間に出来たこころの分断なのだ。

その分断は何を以って解消出来るのか。時日の経過とともに、それが不可能に近いことを伺わせる。
対立、それは、対話で解決出来ることなのか。それが可能なのか。対話の道は閉ざされているようにしか見えない。

対立と分断。この言葉は、もはや、多くが使い、使われ、“消費”されつくした感さえある。消費されつくしたにもかかわらず、新たに“生産”されているということ。

除染、帰還・・・。誰も、それの行方を語れる人はいない。なんだかんだと言ってはいるものの、何かをやっているふりをしているような、まやかし。

15万人の人は蛇の生殺し状態にあったままなのだ。

「不可能なら不可能と言って欲しい、もし言えないなら、何故言えないのかを言って欲しい、どうして言えないのかを聞いてみたい」。

非難している中学3年生の女の子が書いていた。至言だ。

「政治ってのはそういうもんだよ。国家とはそういうもんだよ」。彼女にそう答えるのは余りにも酷すぎる。

1Fは相変わらず「トラブル」を起こしている。ネズミからはじまって、作業員の誤作動、汚染水漏れ・・・。何が本当の原因なのだ。

天気は荒れ模様だとテレビは伝えている。強風が、あの「廃墟」を襲う。むき出しの原子炉、“仮設”の冷却装置。おそろしく、おぞましい。
今度何かのトラブルがあったら「蛇」のせいにでもするのかという悪い冗談さえ浮かぶ。

沖縄の普天間基地、2022年以降の返還という日米合意が出来た。前進と捉えるのか。目途が出来たからと言って。
裏返せば2022年、あと9年は絶対に返還されないということ。

福島の「帰還問題」とどこか相通ずる“構図”。

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