確実にめぐってくる「11日」と言う日。特別な日なのだ。
昨夜、サッポロフレンド会という、サッポロビールの集まりがあった。顔なじみ多々あり。
二次会に数人で。気心の知れた仲間。久しぶりの人も。酒席の話題は自然に一昨年のこと、3・11のことに及ぶ。
この話は一昨年の3月22日に一部書いていた。
郡山市の菜根というところに華林という中国料理店がある。その店のマスター、コックは阪神淡路大震災の経験者である。
3月11日、二度にわたって大揺れした地震。店の中は壊れた。食器から厨房器具まで散乱、破壊・・・。
マスターは、これから起きることをとっさに想像していた。従業員に指示した。「米をとにかく集めろ」「水を確保しろ」。「灯油を確保しろ」。
幸い電気はとまっていなかった。
「避難してくる人がでるはずだ。二階を開けろ。数十人が入れる場所を作れ」。
とりあえずのスペースを確保したあと夜になって。彼は米を炊かせた。炊かせた。心配して駆け付けてくれた元従業員。とにかくおむすびを握った。握った。熱いご飯で皆の手は火傷のように赤くなってくる。握らせ続けた。
それを、市役所の災害対策本部に差し入れた。家が倒壊した市民や市役所の本館が半壊したため、野球場が急ごしらえの対策本部。何も食べていない人達に届けたおむすび。
やがて水が枯渇する。マネージャーを務める奥さんが原市長に直談判に行く。水をどうにかしてください。話を聞いた原市長は決断する。
「給水車は回せない。が、ポリタンクの水はなんとかして届けさせる。避難してくる人のためにも食料をお願いします。寝ずに働く職員のためにも」。
ポリタンクの水が届けられた。いや、取りに行ったのかもしれない。
とにかく米を炊き、炊き、炊き、握り、握り、握りの不眠不休の3~4日。
従業員の手は皆腫れ上がっている。疲労は極限状態。
出来がると奥さんが避難所や対策本部に届ける。それに支えられた人は多かったはず。
「市長が話を聞いてくれ、事情を理解し、即断で水の手配をしてくれた。助けられた人は多いと思う。あの時の形相と決断には感謝している」と当時を振り返って話していた。そう、一緒に昨夜酒を飲んだのはこのマネージャーの奥さん。
「店の灯りは消すな。開けておけ。避難所には行ってないにしても、近所でも食料に困っている人がいるはずだ。我々は食い物屋だ。何でもいいから食い物を提供できるようにしろ」とマスター。
一昨年書いたブログにはこの後のこと。年配の夫婦。旦那はたまたま東京へ。新幹線が止まっているため帰ってこられない。一人家にいた奥さん。数日ほとんど食料を口にしていなかった。そう、スーパーやコンビニから、あらゆる食い物が消えていた日々。
店の灯りに誘われるように、入ってきたその奥さんに、チャーハンを提供した。温かいスープを添えて。
食べ終えたその奥さんは大粒の涙を流しながら、こう言った。「ありがとうございます。これまでの人生に中で、これほど美味しい食事を頂いたことはありません。感謝してもしきれません」と。
小さな店の小さな物語。物語では無い。事実。
温かいおむすび。それがどれだけ有り難いことか。実感している。体験している。ビッグパレットの光景がそうだった。
幸い、友人から米と水が我が家にも届けられた。家内は必死に握った。「温かいおにぎりが食べたい」。そう避難してきた人が言っていたから。
コートのポケットに何十個かのおむすびを忍ばせ、連日ビッグパレット通いをしていた日々。
避難してきた人も、一緒に来た富岡や川内の役場の職員も言ってくれた。「郡山に避難してきてよかった」と。その頃の放射線量は川内より郡山の方が高かった。場所にもよるが。
華林の人達も、そこにはせ参じた元従業員の若い娘達も、市長はじめ、市の人達も・・・。今、あらためて思う。「置かれた場所で咲いていた」と。
逃げた、逃げない。ワンパターンのセリフを連呼しながら、選挙カーが走っていった。くだらない。ばかばかしい。その一語に尽きる。
郡山にお住まいの方、華林に寄ってみてください。マスターとマネージャーの優しい笑顔に出会えるはずだから。