2013年4月21日日曜日

色彩を持たない・・・

さっきまで時々テレビの民放の画像が乱れていた。乱れるというより映らなくなっていた。きょうは民放の日だっていうのに。

なぜ映らないのか。デジタルのせいだ。アナログ地上波では殆ど無かった現象。
デジタル放送の最大の欠陥。天候に電波が左右される。

高画質、高品質、データ放送、双方向・・・。仮設住宅にも、あの狭い部屋にも大きなおそらく50インチを越えるであろうテレビが置かれている。
テレビに占拠されたような仮の住まい。違和感がある。
それは住民の意思を言っているのではなく。

映らないテレビ。色彩を失ったテレビ。そこに何の価値やある。

「デジタル」に馴らされ、それが当然と思いこんでしまった人々。テレビのデジタル化。それは周波数の帯域を“確保”するために仕組まれた、“三流官庁”郵政省の一世一代の大勝負だった。放送行政局長はそれに剛腕を振るった。

役目は終わったということか。今や郵政省という役所は無くなった。どこやらとごったになった総務省。これ余談。

今はだいぶ収まったか。朝から、郡山は大雪だった。季節外れの。
桜が散って雪が積もる。
積もった雪は街を真っ白に変え、街は色彩を持たなくなる。

この時期のこんな雪に出会ったことはない。4月に雪がふる。それは“定説”だったけど。
東京も48年ぶりの低い気温だとか。

四季という「色彩」の中で暮らしていると、季節は巡るものと思っていた。
巡っているのかいないのか。

人は、おうおう、さまざまな事を色に例えようとする。「好きな色は何んですか」。
街のカラーを出そうと言う。彩りで人の心を変えようともする。

色・・・。それはそれぞれの個性ということか。色彩を持たないということは、その人の存在を消すということか。景色もそうだ。

最近、カラー写真をモノクロ化することが若者の間で流行っているらしい。一つの表現の手段としても。
そして、それはなぜか現実にある色彩を持った光景や被写体よりも、色彩を持たない事の方が訴求力があるようにも見える。

あの日以来、そう、津波に見舞われた地域。原発で追われた地域。そこは風景としても、在り様としても色彩を失ったようだ。シロとクロという色しか持たない表現の世界。

人の心の色彩も大きく変わったようだ。大勢順応、付和雷同。個々人の個性としての「色」を隠したような人々の群れ・・・。

夜と言う時間はおおよそ“闇”だ。闇は色彩を持たない。闇の中に多くの人が存在する。

それを非とするのか。何やら、訳のわからぬ施策が練られているらしい。都会では電車もバスも24時間営業にするというのだ。
それが実施されれば、都会は不夜城になる。ラスベガスだ。

闇の中で眠ることもせず、煌々たる灯りの中で働き、動きつづける人々。

「夜型なんで歓迎です」「終電気にせず飲めるのがいいです」「終電とういう言い訳が出来ず残業が強要されるのが心配です」。
東京の人の反応。テレビの報道もそこで終わり。

おかしい、おかしい。電車にしても、オフイスビルにしても、商店にしても、そこには大量の電気を必要とするのだ。
電気を必要とするということは原発も必要だということにつながるのだ。
そこにテレビは言及しない。「電気」のことはもはや忘れられてことなのだ。

原発の“闇”に光を当てることを避け、経済優先ということで、光を求める。

プロメテウスの罠に再び陥ることを是としているような。

日の出と共に起き、日の入りとともにやすむ。それが自然と“共生”してきた人間本来の姿であるはずなのだが。

闇を消し去ろうとしているような人間の姿・・・哀れかとも。

色彩を消してしまった雪・・。それは何かの啓示のようにも思えたのだが。

雪は止んで来たようだ。でもボクの思考は止まない。一部の人間の愚行に対しての。

しばし音楽でも聞くか。リストの「巡礼の年、ル・マル・デュ・ペイ」。
そして夜は・・・。マイルスのミュートが吹く「ラウンド・ミッドナイト」か。

“チェルノブイリ”異聞

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