2013年4月7日日曜日

「非収束宣言」のすすめ

とにかく、東京電力福島第一原子力発電所の爆破事故、大量の放射線の拡散事故。それは、誰が何と言おうと「収束」されてはいない。

一昨日の予算員会でも経済産業相がそう言っていたような気がする。

今更、民主党政権を否定し、非難することの無意味さを覚えながらも、やはり言いたい。収束なんかしていないと。

鳩山は沖縄をメチャメチャにし、菅は原発事故の対応を誤った。
そして野田が収束宣言を出した。
収束とは何を指すのか。その狙いは何だったのか。

民主党政権下の出来事を否定している安倍。その非を、否を言うなら、まず原発事故は全く収束していないということを公言することではないだろうか。

それは事故の話であって、彼が目指す「再稼働」とは別次元の問題として構わないから。

棄民とも書いた。分断も書いた。対立も書いた。差別とも書いた。
ヒロシマとフクシマとも書いた。沖縄と福島とも書いた。
縮む福島とも書いた。消える福島とも書いた。

もう福島を語る言葉を持ち合わせていないような気になる。今の、今日の、福島を語る表現を。
いくら言葉を探しても、それは無意味な作業であるかのような。それは決して悲観的でも自虐的な捉え方でなくても。

せめて福島の置かれた位置だけは明確にしてほしいと思う。

収束宣言を出したから、政府は“収束”と位置づけて手を抜いた。
東電も気を緩め、さまざまな“弊害”を生んでいる。

何も収束していないのに収束とすること。それは「無かったこと」とするに他ならない。”収束“を前提として諸々の事が進行しているのだから。
あの大事故、大爆発の前だったら大問題にされていたであろう“些末”な原発をめぐる不祥事。データ隠しなども含めた。ちょっとしたミス。

それらはあの大爆発とそれに続く未曽有の出来ごとがあったが故に、「たいしたことはない」と印象付けられてしまっている。

「たいしたことはない」ような事は連日のように起きているのだ。
「収束していない」。そう政府が位置づければ、さまざまな対応、施策は変わってくるはずなのだ。

連日伝えられる現場のトラブル。それを知って相変わらず「大騒ぎ」する人、仕立てる人。

お粗末な事故現場の“管理”と、どんどん地図の上で引かれていく区域分け。

とにかく、福島原発事故は、何も終わっていないのだ。何も収束していないのだ。

収束とは・・・完全廃炉になった時に使う言葉だ。そこに居た人が自由に往来できるような環境になることだ。

ずっと、ずっと先のことだ。

民主党政権が、どこの“圧力”や“入知恵”があったのか。おっとり刀で出した収束宣言、それを覆し、非とすることに何のためらいがあるのだろう。

こと原発問題に関して、野田政権の延長と言うそしりを受ける所存なりや安倍政権。

本日もまた「日曜妄語」なり。

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