昨日、「仮」という言葉をめぐって書いた。その続きのようだけど・・
IAEA,国際原子力機関の調査団が第一原発を視察して、報告書の概要を政府に提出した。
「原子炉の冷却にかかわる部分などに、仮設の機器を用いていることに関し、恒久的な設備に置き換える」ことなどを助言したとある。
当たり前だ。しかし、このIAEAという“権威”もどうもおぼつかない。
「福島第一は安定化を達成したが、さらに高める余地がある」なんて言っているんだから。
「地下貯水槽にためていた放射能汚染水の漏えい、汚染水の増加は最大の課題、監視強化が必要」とも言っている。
なんだか、何を今更って感じだ。そんなこと普通の人でもわかる。普通の人が言ったのでは政府は言うことを聞かない。なんたって「権威」が好きなこの国の政府、お墨付きが好きなこの国。IAEAのお言葉賜ったらさっさと動くのか。
仮じゃなくて恒久的。恒久ということが、この事故の処理の困難さを物語っている。恒久とは永久ということと同義。
40年で廃炉。それはあり得ないということを暗に伝えているような。
だから・・・仮の町構想なんて止めようよ。恒久的な集団移転先を探そうよ。
“恐怖”を抱えながら、そこに住むという“無いものねだり”みたいなことはやめようよ。
双葉郡一帯が一つの町になって、どこかに新しい町をつくろうよ。
双葉郡一帯は国に買い上げて貰おう。国有地にして、そこを“無人地帯”にして、人が住まない国土にするしかない。尖閣を国有化したのと同じように。
なんとか区域内の除染は不可能だ。当事者は知っているはず。知っていながら、あたかもそれが可能なように見せている。
住民の中にはそれを知っている人も多い。本音と建前。
しかし・・・。恒久的なものってあり得るのか。何を指すのか。恒久平和をうたった憲法だって、それがあたかも仮の憲法のごとく言われている時代に。
避難住民は、多くの「自由」を奪われている。それは基本的人権にかかわるような。改憲なるものの、それをすら奪おうとはまさかしないだろう。
3・11をどう捉えるか。災後をどう生きるか。それをボクは文学に求めた。反発も貰った。文学が解決策を提示出来るわけがないと。
その文学とは大江文学を指すのもでは決して無い。
ボクが求めた文学は震災とか原発という字に網羅された文学ではない。深淵を探るためのよりメタファ的なもの。
村上春樹の新作、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」。それは、多分、1Q84の続編を諦め、なお震災、原発事故のことを書きたい、書かねばならないとする作家のアプローチが書かせた災後の文学だと勝手にとらえている。
その中にこんな言葉が引用されている。
「自由を奪われた人間は、必ず、誰かを憎むようになる」。
イギリスの劇作家アーノルド・ウエスカーの言葉だ。この引用が、災後の文学だと認識させられた一つ。
政府と東電を一生憎み続けるのか・・・。ユダヤ人を譬えて書かれたウエスカーの言葉だが、たしかに、その憎しみの連鎖は消えていない。
日本人同士が憎み合うということ。それは何をもたらすのか・・。
日本人とユダヤ人。イザヤベンダサンの本をもってしても見えてくるような、こないような・・・。
憎しみの言語が飛び交っている。今、この悲しみの国で。せめて憎しみだけは恒久では無いことを。仮であることを・・・。