春の日差しが眩い。鳥がさえずり、花は咲く。ブラウニングの詩の世界さながらに。何も無いような穏やかな日・・・。その穏やかさが、かえって不気味にさえ感じる。
春に嫉妬しているのだろうか。
パキスタンでも国内でも、またまた地震のニュースが伝えられている。
淡路に続いて、これまでに4回にわたる三宅島近海のやや大きい地震。
地殻の惷動と達観するわけにはいかない。
ボストンでは爆弾テロとみられる惨事があった・・・。
地球は「穏やか」では決して無いのだ。
地震が起きると、あの日を、たぶん多くの人が思い出す。何事も無ければ忘れる。そんな繰り返しの日々のようにも思える。
春と言う季節は「色彩」を伴って訪れる。その中で、多崎つくるクンのように色彩を持たない青年は忘れ去られ、いや、居なかった人のように、無かった人のように、一緒に遊んだ日々が無かったことのように。そう、「忘れる」という意識が、なにやら“定着”していっているような不安がある。
春と言う季節は、その穏やかさが故に、何事も無かったかのような幻覚を呼ぶような、「忘れる」という行為を、思考を助長させているような・・・。
ごめん、春よ。あなたに悪口を言っているわけではない。恨んでいるわけでもない。
人間は「忘れる動物」だ。忘れて来た事が、どんなにみじめな結果を招いていようとも。
ここ数年、物忘れが激しい。年のせいだけではない。若者にもそういう人が多い。忘れることは仕方がないことだ。
でも、忘れてはならないことがある。沢山ある。
それを「忘れさせよう」とする力が、どっかに働いているような事を危惧するのだ。危惧しただけでは何にもならないのだけれど。
原発事故収束宣言。あれは「忘れさせよう」とする力の原点だったのだ。それに上手く飛び乗った人達。
原発事故の責任も、国の再生の方向も、すべてが「うやむや」のまま。
そしてあらゆることが、「3・11前の日本への復興、再稼働」のような動き。
それは忘れるという思考の結果ではないか。
汚染水が漏れ続けている事故現場。どこにも収束の気配すらない。“終息”に向けて、まるで継ぎ接ぎ細工のようなことが行われているだけ。
忘れてはいけない立場の人達がいる。その人達はまるでそれが無かったことのように忘れたふりをしている。客体としての国。
まるであの日が無かったような、3・11の前に戻ってしまったようなテレビのCMの多く。民放の番組の多く。
欲に恍惚感を覚える人の多き事。硬骨漢が居なくなったというこの時代・・・。
だからボクは、その「忘れさせる力」に逆らう。目先の景気にだけ目が言って、いくら株で儲けたとうそぶいている人。
あの日を忘れたい人もいる。忘れなければ次に進めないからと。忘れることが良く無いことだとわかっていても、忘れようと懸命の努力をしているひともいる。
忘れようとしても忘れられないともがき苦しむ人達もいる。
「忘れる」ということをめぐる被災者や遺族の、計り知れない葛藤・・・。
不都合な真実。それの数々。どっちの側から見ても。
それは季節を度外視して厳然と存在しているはず。あなたの前に立っているはず。