家の脇の田んぼに水が入った。はられた。他の田んぼも綺麗に畝らされている。
どこからともなく鴨がやって来た。綺麗な小鳥も水の中の餌を啄ばんでいる。
そんな風景を心地よいものとしながら・・・・。
新聞記事から摘む。俳句と短歌を。
炎天の 海流となる 屋根瓦
須賀川市に住む人が、「3・11」前に詠んだ句である。
その句は「3・11」後、こうなった。同じ屋根瓦を見ながら・・・。
激震や 水仙に飛ぶ 屋根瓦
俳句の常道を無視するかのように季語をもたない句。前者は季節感あふれる美しい風景を詠んでいる。
後者は震災を、ありのままに表現している。
「3・11」は、一人の俳人の作風をこんなにも変えた。
同じ屋根瓦という言葉を用いながらも、それの後と先では、句の世界が違う。
それをすることが、句として残すことの、この時代に生きていることの「証し」だったのだろうか。
原発事故後、“配給”の列に並び、賞味期限の切れたおにぎりをわたされ、こどもの分は数を減らされた。「情けなかった。人間扱いされていない。私たちは見捨てられたんだ」。そう感じたいわき市在住の女性歌人は短歌に思いを託す。
あをいろの雨はしずかに浸(し)みゆきて 地は深々と侵されてゐる
生きた証としての想いで歌を詠む。
ふきのたう、つくし、はこべら春の菜の 人触れざれば いよよさみどり
南相馬の一部で山菜の出荷停止が命令された。そのニュースをこの人はどんな思いで見たのだろうか・・・。
彼女は、自分の“使命感”として詠む。
深くふかく 目を瞑るなり本当に 吾らが見るべきものを見るため
自主避難した人も詠む。
晩春の自主避難、疎開、移動、移住、言ひ換へながら真旅になりぬ
自主避難が“逃げた”とされ、後ろめたさを感じていた時の歌。
「原発事故は東電や政治家を批判してすむ問題ではない。自分たちの社会システムの根幹にかかわっている。それを短歌を通じて考え続ける」と言う。
見るべきものを見るためと詠んだ人は。
俳句にしても短歌にしても、そこに言葉を凝縮させた、それこそ「言葉を編む」作業なのだ。一切の無駄な言葉を排しての・・・。
時折、こうした歌や句を繰り返し読み返す。卑怯なようだが、人の言葉を借りて、自分の感性を“安全地帯”に持って行かないためにも。
政治家という人達、テレビのキャスター・・・、それらの人達のなんと“饒舌”なことだろう。それらの言葉は、多くが無意味であり無味であり、乾燥しきっている。
見るべきものを見るためにしばし目を瞑っている。そこにある“覚悟”。今を生きている証し。
見るべきものを見ない。見なくていいものだけを、心地よいものだけを見ている人達のなんと多いことか・・・。あらためて思う。
やがて田んぼは緑を纏うはず。