2013年4月8日月曜日

「思い出」と「時間」と

ある雑誌に毎月寄稿しています。なぜか間違えて、今年の原稿の校正に去年書いた物が送られてきました。

あらためて読み返してみました。一年を二年に置き換えさえすれば、日数さえ変えれば、誰も今年書いたものだろうと疑わないだろうと。
「一年がそのままだった」という“違和感”。敢えてそれを転載・・・。

思い出と時間と

「時」にこだわり続けている・・・。

寺山修司に「思い出の歴史」という一文がある。
時計の針が進むと「時間」になります。後ろに進むと「思い出」になります。一頭の年老いたロバにも、緑色の髪の少年にも、僕のまだ会ったことのないアン夫人にも思い出があるのです。

あれからもう一年余り。およそ四百日。たしかに時計の針は進み、時間が経ち、思い出を持った。持ちたくなかった思い出を。
それがいかに嫌な過酷なものであろうとも、ボクたちはそれを脳裏の中に格納し、記憶の襞の中に刻み込んでおかなければならない。

人間は、過去と現在と未来、三つの時間軸を持っている。現在とは、今生きているその一瞬であり、一時間前は過去、一時間後は未来ということか。

ヘブライ語には時間軸が無いという。それに従うなら、「天地創造」は、今も、そう、現在も続いているということになる。しかし、あの“出来事”を天地創造とよべるのだろうか。

津波で家も会社も流された漁師は言う。「我々は自然から多くの物を貰った。この土地だってもとは自然だった。そろそろ自然にお返しするのがいいのかもしれない」と。時がもたらした自然への“結論”。

「これから、どうやっていけばいいのだろう」。時の経過を見ながら、未だ先の見えない日々を送る農夫は嘆く。
化け物と会話しようにも、その化け物は話す術を持っていない。ただただ“汚す”という無意志の行為を続けているだけ。

しかしー。農夫の嘆きの中に、一つの未来を見た。「これから」という言葉の中に。
多分彼は未来に向けての何かを見つけるはず。その結論はもっと時が経ってからかもしょれないが。

一日、一日の積み重ねである一年が経った。いったんは断たれたと思われた時が再起しはじめたと考えよう。

だからボクは時にこだわりつづけている。何十年かけてのあの戦後から立ち直れたように、何十年と言う長い未来に向けて、その「時間」が新たな歴史を刻むことを信じている。

だから時にこだわる。一秒と言う短い時間であっても、それに無駄があってはならないから。「思い出」は暫し、引き出しの中にしまって・・・。



以上です。繰り返しますが、置き換えてみてください。年数だけを。
なぜ、この原稿を載せる気になったのか。

また、あらためて書かねばならないと思っています。「忘れる」というテーマ。
それには思い出のことや、時間の事が、それへの延長線の起点としてあることだと思うからです。

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