小学校4年生の頃だったと思う。書き初めという授業がありました。亭主は多分、それが当時の流行り言葉だったのでしょう。「平和日本」と書きました。
教室に貼り出されたそれぞれの書を見ながら担任の先生が言いました。「平和がないから願いを込めて平和って書くのよね。早く平和という言葉が使われなくなる時が来ればいいのにね」。今でもその先生の言葉を覚えています。それ以来、「平和」という言葉を封印したわけではありませんが、考えながらその言葉を使うようになりました。安易に使ってはいけない言葉なんだと思い。
戦後まだわずかの時期。原爆の悲劇が日本中に知れ渡って間もなくであったような時代。
いわずもがな、きょうは原爆の日、原爆忌です。何回か8月6日に広島を訪れました。原爆ドームも記念館も見て回りました。
亭主の記憶の中では、8月6日はいつも青空があの日がそうであったといわれるように広がっており、暑い日であり、記憶の中の惨禍をなぞる日でした。
原爆投下時、どこにいたのかはっきりした記憶がありません。ピカドンという言葉と黒い雨という言葉や現象は残っているのですが、
母親の実家があった兵庫県にいたような。東京にいたような。でも被爆者と呼ばれた人達と接触した覚えはあるのです。何人もの。それは病院の待合室。祖母が空襲の被害にあい大やけどを負い、病院に同行していたから。亭主にとって原爆は「身近」なものでした。
8時15分。鎮魂の鐘に合わせて黙とう。「平和」の鳩が飛び立っていきました。カタルニアの鳩のようにピース、ピースと鳴いていたかどうかは知りませんが。
被爆者と被曝者。原子爆弾は人を殺すために人間が作った残酷な兵器です。原子力発電は、結果はともかく、目的は電力を生み出し、国を豊かにするためのモノとされてきました。「原子力の平和利用」。この言葉は被爆者たちに大いなる“錯覚”を与えたのかもしれません。自分達を犠牲にした憎むべき原子力が「平和」のために役だってくれるならという。
原発事故。被爆者の方々の心の中は様々でしょう。
「平和」という一見使いやすいわかりやすい言葉。しかし読解の難しい言葉。
被爆と被曝。たまたま双方を身近に体験した亭主。科学者の驕り、人間の愚かさを思うだけです。
菅が何を言うか。耳をこらせていました。聞こえてきたのは、所信表明演説のような無味乾燥な言葉。紙に書かれた「脱」という文字を読み、依存しない社会を作るという言葉遊びだけのような。
菅のあいさつに送られたまばらな拍手。その意味が読みとれない。
「追悼式典でエネルギー政策に触れるのは異例」とマスコミはコメントする。触れるのは当然でしょう。触れるだけでは意味が無い。自分の言葉で、自分の「思い」を語って当たり前。しかしー。挨拶からは何も伝わってこなかった。
抜けるような青空の下、高校野球が始まりました。選手宣誓をはじめ、こどもたちの言葉の方が、笑顔の方が、伝える力は大きかったと。
2011年8月6日土曜日
“チェルノブイリ”異聞
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