2011年8月9日火曜日

祈りにつつまれる日

被爆地長崎はきょう一日祈りに包まれる。祈りが捧げられる。その祈りとは死者に対する鎮魂でもあり、核という文明が作り出した兵器への決別であり、原子力という非情なものへの反省が込められている。

長崎はカトリック教徒の多いところである。大浦天主堂は爆心地からわずか500メートルだった。朝早くから天主堂に集い祈りを捧げる信者。原子力という物を作った人類に対して神の答えを求めているのだろうか。

神は答えない。祈りという行為の中から人間が学び取っていかなくてはならない。

多くの死者に対して、生かされた人たちは祈ることでしか答えを見つけられない。

やがて長崎では精霊流しが行われる。川に流される小さな船の中に明かりが灯されている。鎮魂の明かり。

精霊船には、東日本大震災の犠牲者を弔う短冊も入れられることであろう。

祈りの心がある限り、人は人でいられる。

明かり。あるいは火。「神は、光あれと言われた。すると光が出来た。神は光をよしとおもい、光と闇を分けられた」。旧約聖書の冒頭。光は神なのかもしれない。

京都五山の送り火。その光と闇との儀式から“拒否”された陸前高田の鎮魂の薪。陸前高田の迎え火として焚かれたという。

かえってよかったのかもしれない。言ってみれば新盆。ふるさとの空をさまよっている魂はふるさとの明かりで迎えて欲しかったのかもしれない。

きのうも花火が打ち上げられていた。漆黒の夜空に。花火師は作品に心を込めた。花火に鎮魂のメッセージを入れ込んだ。
夜空を焦がす花火に、見上げる人は涙した。魂が浄化される想いがしたからだろうか。空の彼方にいるであろう肉親に思いが伝わったと感じたからだろうか。

もうすぐお盆。お盆の行事が家々でおこなわれる。津波で家をなくした人たち。どの迎え火に向かって帰っていけばいいのだろうか。帰るべき家が無い。

たとえそこが未だ瓦礫の中であっても、家のあった場所で迎え火をたいてあげられないだろうか。新盆。家々の軒先には死者が間違わないようにと高提灯が吊るされる。目印として。

廃墟となった地にたかれる迎え火、一本のろうそく。その灯りが、せめて叶わぬとはしても小さな希望の光であって欲しいと。

原子の火、それはやはり“悪魔”の囁きであったと心から思う。ささやかな、小さな手作りの火が、悪魔の火に打ち勝つ。そんな想いがこみ上げてくる平成23年の特別な夏。そう祈る夏。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...