2011年10月18日火曜日

「ありふれた記者」

きょうは少し長くなりますが、お付き合いください。

朝日新聞35面。連載されている南三陸日記という欄があります。きょうの記事。南三陸駐在という肩書の三浦英之という記者の文です。記事のタイトルは「彼が最も愛した町で」。以下、書き写します。


震災半年が過ぎ、宮城県警の公葬が終わるのを待って、私は殉職したある警察官の自宅を訪ねた。呼び鈴を鳴らして名前を告げると、短い空白があって、扉が開いた。奥さんは涙ぐんでいた。
遺影の前で両手を合わせた後、食卓に招かれ、いつもの場所に腰を下ろした。駆け出し時代の4年間、私はこの家で毎日のように夕食を食べた。何一つ変わらない居間。警察官だけがいない。
「津波の数日前でした」と奥さんは語った。「三浦さんのことを主人は話していました。きっと立派になっているんだろうなって」。その一言で、こらえ続けていた涙があふれた。
弱い女性や子どもを守る仕事を誇りに思い、警察官としていつも全力で管内を駆け回っていた。「職業は違うが、目標は一緒だ」と何度も肩を叩かれた。
数年後、東京本社に異動した私は、気がつくと、ありふれた記者の一人になっていた。だから、ここに来られなかった。今の自分を見せることが怖かった。
最期は女性を助けようと濁流にのまれた、と聞いた。「どうして」と霊前に問いかけ、彼の口癖を思い出した。「悩んだら、なぜその職業を選んだかを考えろ」
南三陸町は生前、彼が最も愛した町だった。「海も人も優しくてな」。今、変わり果てたその町に住み、取材をしながら、彼の言葉をかみしめている。


亭主はもちろん、この記者を知りません。新聞社の中でどういう職歴を経てきたのかも、なん南三陸に戻ったのかもしりません。変わり果てたその町に住み。短期の仮住まいなのか永住をするのか。わかりません。
それらはどうでみいいことなのであって、彼が「自分」を、「ありふれた記者の一人」と感じた時、たぶん、それは、被災地を見て思ったのでしょうが、その「ありふれた記者だった」という自覚が生まれた時から、きっと彼の書く記事は、いままでと違ったものになったのかもしれません。
世の中でもたはやされる、それこそ、ありふれた言葉、「寄り添う」。うわっつらな言葉だけでなく、彼は被災者に、弱いものに寄り添った、本物の記事が書ける記者になったのだと思います。

彼は「ありふれた記者」でいいのです。彼のような「ありふれた記者」が「ありふれた人々」のことを書く。そこから事の真実が見えてくるのかもしれない。自分がありふれた記者であるという自覚に立たない限り、ありふれた人々のことは書けない。

永田町には「ありふれた記者」が横行しています。首相が“ぶら下がり取材”を受けないということを怒り、ありふれた記者どもが集まっている内閣記者会で抗議文を突き付ける。選んだ職業から垣間見える傲慢さ。

ぶら下がりをしないという批判記事の下にある首相動静。内閣記者会キャップと懇談と書いてある。一時間の懇談。その懇談の内容記事は書かれてないけど。

きのうも首相はインタビューに応じている。少なくとも一週間に一度、首相は会見などでメッセージを発すればいい。それが一方通行でありにしても。

リーダーには言葉が必要です。首相は言葉を選びながら、熟慮の上のメッセージを発するべきです。

県も市も町も。リーダーたちが発する言葉は見受けられない。視察に来た閣僚に「文句」を言うだけ。

県民に、市民に発するべき言葉があるはず。その言葉をありふれた市民、県民は待ち望んでいる。待ち望みながら半年以上・・・。

だから“不信感”だけが醸成される。


ありふれた記者だったから、ここに来られなかった。今の自分を見せることが怖かった。正直な心情の吐露。帰ってきた「元ありふれた記者」を南三陸の人は多分暖かく迎え入れるでしょう。夕食を提供するかもしれない。

マスコミ不信に陥っている亭主を少しだけ救ってくれた駐在記者の一文。

そして思う。亭主もかつて、「ありふれた記者の一人」だったと。今は「ありふれた老人」。

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