2011年10月25日火曜日

「不信」に覆われた国

毎月執筆しているタウン誌で引用した言葉なのですがー。

「信というはまかすと読むなり。他の言に任せる故に、人の言と書けり」。
一遍上人の言葉。

その「他の言」が信じられない。「まかせ」られない。今、この国を覆っている空気。

東電の隠ぺい。ずっと続いていたあらゆることの隠ぺい。原子力保安院の隠ぺい。文部科学省の隠ぺい。

隠していたことが次々と明らかにされてくる。隠していたことだけではない。虚偽も。うそつきは信じられない。当たり前だ。

隠ぺいを“暴露”し、それを攻撃するメディア。そのメディアに対しても、「本当のことを伝えててない」と市民は感じている。不信が渦巻いている。

そして、国や行政の言うことは信じられないとなる。

特に問題なのが放射性物質の測定値をめぐる問題。民は“自衛”に走る。食品は買わねばならない。スーパーの店頭に、それぞれの食品に貼られた「測定値」を見て買うか買わないか判断する。半信半疑で。

なぜこれほどまでに「不信」が広まったのか。信という字が不毛になったのか。
ある学者さんが上手い事を言っていた。

「国が国民を信じていないからですよ」と。

情報を公開すれば国をあげてパニックになる。政府や官僚が言い続けて来た論理。そこには“愚民思想”があったのだ。

だから、例えば論語にある「寄らしむべし、知らしむべからず」を「知らせてはいけない」と読み解くのがこの人たち。孔子さまがそんなこと言うわけない。
「知らしむべからず」とは「知らせるのは、わかってもらうのはむずかしい」と読み解くのだ。

セシュウム米騒動で揺れた二本松市。その二本松市にある霞ケ城。おっと、なんと霞だよ。霞が関ではないけれど。
その城の門扉にある“戒石銘”。
藩主の丹羽高寛公が儒学者岩井田昨非に作らせた藩士への戒め。

「なんじの俸(ほう)、なんじの禄(ろく)は 民(たみ)の膏(こう)、民の脂(し)なり 下民(かみん)は虐(しいた)げ易(やす)きも 上天(じょうてん)は欺(あざむ)き難(がた)し」

つまりー。
「お前の俸禄(給料)は、民の汗と脂の結晶である。 下々の民は虐げ易いけれども、天を欺くことはできない。」ということか。

しかし、ここにもある。下々の民は虐げやすいと。官に根付いた思想。

国民は国を信用できない。信じられないという。国は国民を信じていない。

信頼関係ゼロの国。そりゃ不信の連鎖が連鎖を生むでしょうね。じゃ、信じられるのは自分だけ。そうもいかない。自信すら失われてしまっているような。

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