2012年10月31日水曜日

「それ行けスマート」

むか~し、テレビが各家庭に行き渡った頃、ゴールデンタイムのテレビの番組の主流は主としてアメリカの番組、ドラマだった。

ララミー牧場、アンタッチャブル、スパイ大作戦、拳銃無宿、西部劇・・・。
ほのぼのとした番組は、奥さまは魔女。

そんな中に、コメディー風なスパイ物があった。「それ行けスマート」。スマート君とは主人公の名前。たとえば靴の底に無線機器を忍ばせてみたいな、今を“彷彿”とさせるような仕立てもあった。
原題は「et  mart」。

主人公の名前がなんで「スマート」だったのか。

その頃、日本にも「スマート」という言葉が横行していた。
「あの人はスマートだね」「もっとスマートに行こうや」などなど。
その「スマート」の意味は「からだつきや物の形が細くすらりとして恰好がよいさま」「身なりや動作などが洗練されて粋なさま。颯爽」。古い辞書にはこう記されている。

ハンサムなどという言葉も流行っていた。今で言いう「イケメン」か。

いつの頃からか、まだ数年だ。携帯電話はスマートフォン、スマフォ、スマホが主流を占めるようになった。英語ではsmart phone。パソコンの機能などを持たせた、「多機能携帯」と言われる。

この“端末”のスマート、それは「賢い」という意味だそうだ。たしかにお利口さんであり、便利なもの。・・とされる。

同じ原語の英語でも、なんで訳が違うのだろう。

ボクがスマフォを手にしたのが3年前くらう。若者に刺激され、あげくツイッターなるものやりたかったから。
ツイッターのタイムラインに乗せられる言葉は2・11前と3.11後では大きく変わった。
そして羅列される決して、前者の意味のスマートでない言葉の数々。うんざりするきらいの。
賢い機械が運んでくる、賢くない、お利口でない言葉の数々。

ドコモで言えば、アンテナ引っ張り出してのムーバ懐かしの携帯電話。携帯ストラップがファッション化してた頃。そしてフォーマの時代。懐かしい二つ折の携帯電話機。

スマフォではストラップに変わって、デコなんとかいうビーズみたいなもので飾り立てたものが女性の一種のファッションだとか。


スマフォが家電機器を動かし、車を動かし、スマフォに支配されていく世の中。画像もナビも検索も。
スマフォに検索機能がついたことで、いやもっとも以前からもあるにはあったが、なんでもそのスマフォ一台持っていれば、目が良い限りは片が付く。

検索あることによって、ネットで全てが解決され、そこに並んだ言葉を刷り込まれ、自分の言葉と勘違いし始め、考えることをやめてしまった。

さっきもニュースでやっていた。スマフォのアプリをダウンロードすることで、不正アクセスを許し、犯罪を生じさせていると。

そして世に登場して来たのが、原発事故後の節電が言われる中での「スマートグリッド」。通信、制御装置をもった電力網。

スマフォを応用して車を止めることも出来るとか。運転制御が出来るとか。
昔の交通標語。「飛び出すな、車は急に止まらない」。もはや死語かも。「飛び出せよ、車はスマフォが止められる」かな。

昨夜、いきなり車が止まった。エンジンが始動しなくなった。セルモーター周りの不具合らしい。持っている古いスマフォで車のディーラーさんとJAFを呼んで・・・。
なんか格好悪かったなぁ・・・・。

2012年10月30日火曜日

「明日」と「今日」と

野田首相の所信表明演説の全文をくまなく読んだ。「明日」という字がいたる所に散りばめられている演説。
「名文」である。と同時に「迷文」であり、決して「明文」とは言えない。という印象。

「明日への責任」を彼は説く。明日とはいつのことを指すのか。十数時間後の10月31日と言う明日なのか。遠い未来を総称しての明日なのか。

福島について、被災地についての言及に目が行く。ほとんど何も語れていないに等しい。福島の再生無くして日本の再生無し。もうずいぶん前に聞いたセリフ。あの演説の時から、「明日」は何回も来ている。

福島にしても被災地にとって語ってほしいのは「今」なのだ。「今日」を語ってほしい。何もしない今日は、何もしない明日への無機質なレールに過ぎない。レールに列車を乗せるのが今日だということ。

首相の国会での演説。施政方針演説にしても、所信表明演説にしても、おおまかな論旨は首相が言うかもしれない。しかし、実際に原稿を書くのは、秘書官であり、今なら補佐官と称する人達なのだろう。出来あがったものに手を入れることぐらいは有ったとしても。

そして、演説原稿は、事前に印刷されたものがマスコミには配られ、野党の議員のところにも配られている。本会議場での演説は、そういう意味では儀式。

例えば朝日新聞は官邸記者にツイッターでつぶやかせている。誰が誰と打ち打ち合わせながらその原稿を書いたのか。それが知りたい情報の一つなんだけど。
そんな取材はされていない。そんなつぶやきは登場しない。

事前に配られているから予定稿として、論評含め、多くの原稿が載る。野党もコメントを用意出来る。テレビは編集しやすいように事前にどこを放送するかが出来あがっている。

内幕話ししても意味のないことだけど、それが実体だということ。

野党は決まりきったようなコメントを出す。安倍総裁は言う。「リアリティーの無い演説だ」と。ならばあなたの言っていることにリアリティーがあるのか。憲法改正。およそリアリティーの無い議論だ。3分の二の国会議員による発意が無ければ出来ないことを。それこそ「遠い明日のこと」では無いのか。

立法府としての国会は所信表明演説を受けて、それに対する各党の代表質問を行うことになっている。それは「法」で決められた事。
参議院では“憲政史上初”とマスコミが大々的に、大時代的表現でそれを言うが、問責決議を受けた総理大臣の演説は拒否するとした。
それは即ち、代表質問も無いということになる。明らかに法の取り決めに違反している。
安倍は「審議拒否はしない」と言いながら、参院は御しきれなかった。

言論の府である国会、その一翼を担う参議院の存在意義が問われるのは当たり前。論破があってこその言論の府。

参議院議員に支払われる歳費は、まさに何の対価でもない無駄カネ。予算委員会には出ると言うことらしいが。

話を戻す。明日でなく今日を語れ。今を語れと。「明日」という言葉に言及した時、咄嗟に返したくなるのは、君達に明日は無いという言葉。だってそうだろう。被災地の人達は思っている。いくら希望という言葉を投げかけられても。「俺たちに明日はない」と。映画のタイトルでは無い。現実として。

人間は、昨日、今日、明日という三つの時間軸で動いている。言い換えれば、過去、現在、未来という時間軸の概念。
過去を語るべき時に過去を語らず、今を語るべき時に今を語らず、語れず、明日を語るべきでない時に明日を語っている今の政治・・・。

名文が迷文にしか思えない所以。

2012年10月29日月曜日

兼好法師はいかに思はむ


兼好法師、吉田兼好の代表作、随筆、徒然草。当店のキャッチコピーでもありますが。

正確には覚えていないのですが、子供の(中学かな)、古文という時間がありました。国語とは別に。そんな風に覚えています。
そこで、古文、古語を勉強しました。その文章、文体が綺麗であり、美しくもあり、著名な作品の冒頭の句は今でもはっきり覚えています。子供の頃覚えたことは忘れない・・・。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花のいろ、盛者必衰の理をあらわす」。だとか。
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水に非ず、澱みに浮かぶうたかたはかつ消え、かつ結びて久しくとどまること無し・・・」とか。

なにやら、あの時代を覆っていた無常感に魅かれたものです。

「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かいて、こころに浮かぶよしなしごとを、そこはかとなく書き継ぐれば、あやしゅうこそ物狂ほしけれ」。
徒然草の書きだし。この雰囲気が好きなのであり・・。

今、縦書きの文章は少なくなり、横書きばかりがまん延する世の中。一日中、硯にむかって、墨をすって、文章書いている人なんかいやしない。書道をたしなむ人ならともかく。

「別に退屈ではないのだけど、自分の存在を“確認”したくて、日暮らし、一日中、パソコンに向かいて、頭に浮かぶ、罵詈雑言を、まるで有ったことのように打ち続ければ、読む人の反応が楽しくて致し方ござらぬ」。

これって現代風解釈、口語訳ってあんばいにて。

「3・11」以降、徒然なる日々は無くなりました。それまでの“日常”は無くなりました。あおの日からの数々の映像、実際に出会った光景・・・。

徒然とは、辞書にはこうあります。することがなくて退屈なこと。また、そのさま。手持ちぶさた、と。

そういう日々があったらよかったと思う。いや、そうでない「3・11」に短い人生の中で遭遇したことの方がよかったとも思う。

それにしても、いわゆるこのネット社会。IT社会なるもの。この駄文とてパソコンを使って書いているのだから、文字を打っているのだから、それを“否定”するのは自己矛盾だと思うのだが。

IT,いやパソコンの歴史は、たかだか20年足らず。この「成長」ぶりにはただただ驚き、しかも、創世期はともかく、ハードもソフトも含め「ITバブル」という物が出現し、あっと言う間にすたれ・・・。

「進化」は凄い。Ipadからスマートフォンに至るまで。とにかく“便利”なものが、世の主流と相成りました。

亭主がパソコンに手を染めた時は、たとえばプルバイダなんてNTTとニフティーくらいしか無かった。今は・・・・。

ネットの功罪を言い出せばきりが無い。一冊本を書いても書ききれないくらい。

ネットに氾濫する日本語はもはや日本語の体をなしておらず。理解不能の言語がカタカナが飛び交い。
そして、便利であるがゆえに、人々はその便利さにおぼれる。楽しむ。何かを失っている。その一番は「考えること」。

考えることをやめた人達は、ひとえに「コピペ」の世界に走る・・・。たとえばテレビの料理番組。デジタル化によって、ネット連動。新聞記事もネット連動。レシピはネットで検索すれば即OK.料理はネットが作る。そこには昔ながらの「おふくろの味」は存在しない。

ネットで言辞を吐く人は、それこそ「一億総ジャーナリスト化」し。たとえばツイッター。その全てを否定するものではないが、「3・11」直後は、有効な情報収集ツールだった。ツイッターによって救われた人達もいる。
しばらくすると、そのツイッターは「嘘」「デマ」「誹謗」「中傷」の“場”として提供されてるような。現下はまさに「それ」。
ネットにちりばめられた他人の言辞を、いつか自分の考えと勘違いし、受け売りに走り。考えることをやめた人達は、そのまま思考停止になっている。

そして子供までもがスマフォに接し、スマフォで遊ぶ。子供の知能は高い。すぐに慣れる。簡単に知識を含めて、遊び方も含めて、それに染まる。考えない子供たちが出現する・・・。

飛躍するようだが、「電気」が無ければ「IT」は成り立たない。

もはや人類は、革命を起こそうとしている人達も含めて、「IT」の罠、呪縛から逃れられないようになった。

もし、ばかばかしい話だけど、吉田兼好が今の世に存在したなら、その随筆の冒頭をなんと書きだしただろうか。
清少納言や鴨長明は、その「無常観」をどう表現したのだろうか。生きている世が今も変わらず「無常」であることに変わりはないはずだから。

2012年10月28日日曜日

「男の顔」について

男の顔、それは時折“格言”めいたものにもなる。

「男は四十になったら自分の顔に責任を持て」だとか、「男の顔は履歴書、女の顔は請求書」(笑)とか。

女の顔、ダウンタウンブギウギバンドのサクセス。阿木耀子の詩がうまい。
「女は昨日の顔で待つ」「女は今日の顔で泣く」「女は明日の顔を待つ」。
これと“請求書”とは関係ありませんが(笑)。以上余談。

「自分の顔に責任を持つ」。言ってみれば、人は、ある年令を越したら、その顔にはその人の人生、生き方、考え方が刻み込まれているということか。

第一印象は意外に正確。その人の持つ雰囲気は人生の長い時間をかけて作られてきている。亭主もけっこう第一印象で判断する。
「嫌な顔」の人は嫌、「きらいな顔の人はきらい」と。

じゃ、どういう顔が責任を持った顔か。皺だけではないだろう。
いわき沖の漁獲海域が南に拡大されて。港に活気が戻ってきたような気配。女川のサンマは名を上げたが、いわき沖でもサンマの便りが・・・。漁師たち、皆いい顔している。いや、いわきの漁師や三陸の漁師だけではない。被災地の人達ってなんでみんなあんないい顔しているのかと思う。

楢葉町の木戸川で、鮭の試験的捕穫をした漁師は言う。笑顔で。
「ひさしぶりに魚に触れて幸せだった」と。いい顔だった。
多分、一回、どん底、闇を経験したからだろうか。「生きる」ということの意味を悟ったからではないだろうかとも。

なぜ「顔」の話を書いているのか。またまた政治家に行きつく。なんと嫌な顔の政治家が多いことか。お辞めになられた田中慶秋。あれほど嫌な顔に出会ったことはない。全てが顔に出ていた。
もう一人、あの幹事長さま、いや民主党ですが。輿石の顔も見るに堪えない。「ずる」の塊みたいな顔。

石破も目つきはよろしくない。しかし、時々見せる笑顔は可愛く見える。悪党顔した大島理森もそうだった。安部ちゃんのあの「のっぺり」した顔もどうもいただけない・・・。
そういえば経団連の米倉。これも嫌な顔だね。古々米と言ったらコメに怒られるか。

国会議員は勤続25年を経ると自画像がどこかの部屋に、委員会室含めて掲
額される。何人もの「顔」を見て来たが、自画像を見て来たが、責任を持った顔ってあまりお目に掛れなかった。

テレビがデジタル化され画像は鮮明になった。皺一つも映し出すと言われて、アップにされることをいやがった女性タレントもいるという。テレビにも「責任を持たない顔」がかなり登場する。報道番組で、そんな顔が偉そうに喋っていると、たとえそれがまともな事を言っているのであってもふんぱんものに聞こえてしまうってのはやはり顔のせいかな。

最近、40を過ぎて責任を持っているようないい男の顔を見た。テレビで。キング、カズ。三浦和良。彼の皺は魅力的だった。

顔と言えば、企業のトップ、社長はその企業の顔。それが見えない会社多い。見せない社長も多い。顔が見えない企業の社員は苦労する。
「会社の顔、それは受付嬢です」。なんて言っていられないような。
そして、最近のテレビ。男も女もなんで皆、同じような顔をしているのだろう。若い女の子のグループ、見分けがつかない。老眼だけのせいじゃないと。

なんで、こんなつまらない顔の話を書いたのだろう。きっと今朝、髭剃りで鏡に映った自分の顔を見て嫌になったからだろうと。顔は良くないけど、嫌な奴ではありません。言葉使いも悪いけど悪人ではないと思っています。今後ともよろしくお付き合いくださいませ。


そして、蛇足でもう一言。「選挙の顔」。石原新党なるものが発足するだろう。たぶん。彼がその政党の「顔」になるだろう。
彼は言った。「小異を捨て大同につくべき」と、第三極の結集を呼び掛けた。そして、その小異の中に原発を入れた。原発を些細な事と言ってのけた。
政策の違いは問題ではない。大連合を図ることがこの国を変えるために、官僚統治を打破するために必要なのだと。
政策の違いを小異と切り捨てた。政策の一致は政党の原理原則だ。なんでもいいから一緒になろう。その呼びかけに集まった人たちがいれば、それは単なる「野合」、それらの人を「鵜合の衆」という。既成政党もいわば、今は、鵜合の衆。そんな奴らの顔は、これ以上見たくないと。

2012年10月27日土曜日

これは国会議員にとっての一つの“正義”かもしれない

石原慎太郎を見ていてふと思い出した。
田中角栄が総理大臣だった頃、よく聞かされた。
「俺は総理大臣を辞めたら新潟に帰る。新潟県知事になるのが俺の夢だ」。

何をもってかの真意かはわからないが、故郷への想いと、そこの人達を直接触れ合える政治を“原点”とみたのではないかと思ったことがある。

閑話休題。

15兆円にのぼる「復興予算」の付け替え、流用。これも報道によって明らかにされた。
政府も、たぶん、よく知らなかったのだと思うけれど。官僚だけの仕業か、もちろん政治家もかんでいる。
慌てた政府は、執行停止にするとか、来年度予算では“精査”するという。でも、まだ、その結果は出ていない。

数あるニュースの中にあった小さい記事。超党派の国会議員10数人が、「復興予算奪還プロジェクト」なるものを立ち上げ、宮城県や福島県に、今日から、現地調査に来ていると言う。

国会議員、政治家。その政治に関わるニュースは、解散問題や、バカな大臣の更迭問題、臨時国会云々の話に割かれ、毎日、見たくも無い顔を見さされ、聞きたくない話を聞かされる。

政権がいつ、どういう風に変わるのか。その帰趨はわからないが、少なくとも民主党政権が無くなることは間違いない。

超党派国会議員の「プロジェクト」、大歓迎だ。マスコミの扱いは小さいけど。

そのキーワードは“被災者主権”“予算の民主化“だと言う。

10数人とは誰か。一部の人の政党名や個人名がでているに過ぎない。全員が知りたいね。

選挙の結果が流動的であるからこそ、超党派ということに意義がある。所属政党を超えて、議員としての「正義」を重んじての行動に意味がある。

このプロジェクトにもっと参加者が集まり、議員立法が提出出来るくらいのものになればいいのだが。

彼らには失礼かもしれないが、永田町の「正義」は“陣笠”から生まれるのかもしれないと。
政権の内部に居る者、野党の幹部にいる者に、いまさら「正義」を求めるつもりはない。かと言って、予想される第三極にそれを期待するも裏切られるは必定。

「国民の付託を受けた選良の正義」。それが実を結んでくれればいいのだが。
新たな「事業仕訳」がなってくれればいいのだが。

現地視察にどれだけ意味がある、遅きに失したと言えなくもないが・・。見てきてください。聞いてきてください。
復興予算が付けられても、それを執行するための自治体に職員がいかに足りないかも。国の公務員を、それも優秀な公務員を、地方の出すための策を提言してください。

「官僚のための復活予算になってしまったものを、被災者のための復興予算にしなければならない」。メンバーの一人はこう言っているのだから。

当たり前の話なのだ。当たり前の事が、当たり前で無くなっているのが、今の政治。

正義とは、当たり前のことなのかもしれない。

2012年10月26日金曜日

「三極」ってなんなんだい。

「黒白をつける」という言葉がある。

物事の正邪、善悪、是非をはっきりさせるという意味。
政治はたしかに混迷している。混迷と言うか、どうしようもない状態。
その政治のありようで想うこと。
「政権交代可能な二大政党」、それが小選挙区制導入時の謳い文句であった。
政治家もそれを是とし、マスコミもこぞってそれをはやしたてた。

それはあえなく失墜した。折からアメリカの大統領選が白熱している時、共和党対民主党。アメリカのようにはいなかい。イギリスのようにもいかない。
明らかに「政治風土」が違うから。
結局、政策という点では、自民と民主、あえて加えるかな公明にも、大した違いはなかった。

そして、いつの頃からか「第三極」という言葉が登場した。

それは、“黒白”でなくグレーがあるとういうこと、それが緩衝帯になるということでは無く。

石原慎太郎が都知事を辞め、新党を結成するという。第三極としての政党を。
この第三極が、混迷する政治の救世主たりうるのか。ならない。混迷に拍車をかけるだけ。

たまたま見た、昨夜の報道ステーション。コメンテーターの朝日新聞の記者が、うまいことを言っていた。たまにはうまいことを言う。

「無極化」だと。

そして、たまたまだろうが、この三極を言う人達、それを目指す人達に共通しているように見えるのが“恫喝政治”ということ。
小沢一郎・石原慎太郎・橋下 徹。少なくともマスコミに対する表面上の姿勢は、ほとんどが“恫喝”だ。官僚に対する姿勢も。その振る舞いを見ても。

そして彼らに共通するのが、時として“変節”するということ。
かつて自民党の中で、青嵐会という、いわば党中党のようなものを作った石原、当時と“思想”は変わっていないのだろうが、その頃言っていたような気がする。「60歳や70歳の前頭葉が退化した老人に政治を任せる時代は終わった」と。

いまや80歳。そして新党で組むのがこれまた高齢者5人の政党「立ち上がれにっぽん」。冗談めかして言いたくな。新政党名は「老人党」かと。

老人だからと言って、それを否定するものではない。豊富な識見は持ち合わせているのだろうから。でも、「ご意見番」に徹するのがよろしいのかと。
将来がある息子伸晃のためにも。

彼は昨日の“独演会”で、憲法破棄に触れ、サンフランシスコ講和条約締結時に、独自の憲法を作らなかった吉田茂を罵倒した。吉田茂の孫と一回論戦してみてはいかがか。脱線だね、これは。

罵倒の中に経団連の歴代会長が標的にされていた。名前を思い出せない。が、呼び捨て。そして、大阪市長は「橋下さん」と呼ぶ。

維新の会に、秋波を送る。後継には猪瀬直樹を指名する。こりゃ作家猪瀬直樹の書いた「脚本」だなとも。例の週刊朝日事件をめぐっても猪瀬の佐野攻撃は、その盗用疑惑解明も含めて、強烈だった。橋下維新にたいするおもんぱかりが見え見え。

石原文学は好きだった。猪瀬の作品も素晴らしい。で、それが政治の舞台となると・・・。物書きって、二面性持つ人多いんだろうな。

石原は先日、福島を突然のように訪問した。原発事故現場を視察した。なぜか・・・。その動機が不明だ。視察のあとまた吠えた。「人類の科学の進歩の結晶である原発を止めることはありえない選択だ」というようなことを。
原発維持を主張した。

彼の論に橋下はいかが対処するのか。

新しい政党の誕生。国政にその影響力を与えようとする。なんでこうなる。既成政党がダメだからだ。愛想を尽かされているからだ。
なのに、自らの非力を反省するのでなく、新党によりすがろうとする。新しいもの好きな人々。

もう、どこの党がどうで、何がどうなのか。面倒になってきた。「無極」。いい指摘だったかもしれない。
地球にはね、南極と北極の二極だけでいいんだよね(笑)。

既成政党よ、踏ん張ってみないかい。

ま、選挙があれば黒白はっきりするだろうし、三極がグレーなのかどうかも含めてはっきりするだろうけど。

2012年10月25日木曜日

「逃げる」か「立ち向かう」か、それが問題だ

昨日、原子力規制委員会が発表した全国16個所の原発事故による放射能拡散予測。テレビも新聞も大々的に報じる。

もし、東京電力福島第一原子力発電所と同じような事故が起きたら、半径30キロ圏外にもIAEAが決めた線量よりも高い放射能が拡散されると。

原発を抱える自治体は大慌て。(その風情)。困惑しながらそれらの長や関係者は言う。防災計画を見直さないととか、避難体制を整えないととか。

発表も含め、何を今更だ。と申し上げる。

一つの“前提条件”として、その時の風の方向というのが、大きな要因であり、その気象状況は誰にもわからない。わからないけど言いわけにはならない。

福島を見れば、発表も含め、それはもう去年からわかっていたこと。30キロ圏外はもとより、5キロ圏内の防災計画なるものは作っていたけど、それは何の役にも立たなかったということ、飯舘村を見れば、30キロ圏外に甚大な被害を及ぼすことはすでに現実として実証済み。

あえて言わせてもらえば、「福島」から何も学んでいなかった。大慌てして、計画見直しなんて言っている冶自体は。

福島をきちんと見ていれば、明日は我が身って思っていたはず。何を今更だとあらためて。

何万人、何十万人の人が避難する、逃げるってことが、どういう事態なのか。
受け入れ先なんてありはしない。風に乗って来るものを防げない。

いったん「事故」が起きれば“地獄”は半永久的に続く。

逃げ道を確保し、避難先を設ける。そんな「都市計画」ができるわけも無い。

彼らが言う「防災計画」とは「逃げる」こと。逃げ切れないのだ。そこには戻れないのだ。
立地県やその周辺自治体は、福島に学んでいれば、それらは自明の理だったはず。

多分、きょうは、あの地図に載った地域ではこの話題でもちきりだろう。企業は工場は移転するかどうかとか、別の拠点を構えるとかに躍起となるだろう。
家庭でも「どうするか」で、家族会議が開かれるかもしれない。
自治体のは早速、対応策のことで不信が生まれるかもしれない。

一番怖い「人間関係」の崩壊の糸口ともなりかねない。

仮定の事とはいえ、それは、福島が古くて、老朽化していたからという逃げ口上は許されない。

警察はどうする、自衛隊はどうする、消防はどうする・・・。自治体が対策を、万全の対策なんて出来るわけが無い。恐怖におののいた人達を避難させる、混乱させずに。無理だ。

「逃げること」だけを対策と考える。それは、ある種の「思考停止」だと。
逃げることよりも立ち向かうことを考えないと。と思う。
それは原発を止める。それ以外に無い。止めるために立ち向かう。止めさせるために立ち向かう。原発が無くても生きていける世の中を作る。

住民も自治体も、そっちに意識が向かないものかと。

官邸前で、鳴り物入りで騒ぐ「反原発集会」とは違う。自分たちの生活に関わること。

原発事故から避難する、逃げるという事が、“被曝”だけではなく、あらゆることで過酷で至難のことだと福島を凝視すればわかること。

320袋の米の中から100ベクレルをちょっと超えた一袋が見つかった。基準値をたった10ベクレル超えていたということで、その地域の米は当面出荷停止になる。

事故から1年7カ月も経った今でも、風評被害含め、60キロ、70キロ圏でも生活を脅かす問題になる。そういう風潮がまん延しているのが、今のこの国。
新聞論調は言う。「再稼働に大きな影響を及ぼす、再稼働は難しくなるだろう」と。これだって、何を今更だ。

逃げる対策に懸命になるより、原発が無くても暮らせる対策を考えることの方が大事なのじゃないかと。

逃げるか、立ち向かうか。それの選択もこの国の「正義」を考えることの一つだ。

もっとも、再稼働していなくても、停止していても過酷事故はあり得るということは十分承知の上で。

2012年10月24日水曜日

これは福島にとっての一つの“正義”かもしれない

報道によれば福島県は東京電力に課税していた「核燃料税」を今年限りで取りやめることにしたという。核燃料税を“徴収”する関係条例を県議会に提出しないということで。

核燃料税とは、原子炉に入れた新燃料の価格と重量に応じて課税するもの。福島県はそれを1977年に導入した。5年ごとの更新。今年の12月が直近の更新期限。ここ5年間で総額約264億円が見込まれていた。1年当たり53億円。

県に入ってこの税収は、立地地域に交付金として支払われていた。福島県以外でも、13の道県がこの条例を作り電力会社に課税している。

この条例による課税。そもそも、県の側から提起したものなのか、電力会社の方からの申し出だったのか、その経緯は知らないが。

すでに去年のあの事故後、この税金は入ってきていない。「新燃料」はないのだから。悪く言えば「実態の無い課税条例」と言えるかもしれないが。
しかし、2Fも含め、すべての原発の廃炉を求めている福島県にとっては、実際の税収があるかどうかはともかく、順を追って、「原発との決別」を形として示すことは、被災県として、当然の、一つの「正義」なのだと思う。

すでに福島県は電源三法の基ずく、電源立地交付金も今年度から辞退している。
その額は多分、130億円ともいわれている。

国や電力会社による、ありとあらゆる方策を考え出した、立地地域に対する「カネ」による懐柔。いつしか人々はそれに慣れてきた。人間、誰しも「慣れ」がある。それらの「カネ」によって福島県の財政は維持されてきたことも事実。

しかし、それを以て、「福島県」を「立地地域」をなじり、そしるのだけは絶対にヤメテ欲しい。

原発の歴史は、「貧しさ」の裏側の歴史でもある。時には訪れ、時にはテレビで見る都会の「豊か」な生活の何分の一かでも「追いつきたい」と思うことは当然なのだ。
今更言うまでもないが、原発は、あるいは、原発関連施設は、貧しき地域を標的にして作られる。作られた。それによって、たとえば施設が出来、生活管用がいくらか改善され、雇用がうまれ、ようやく都会並みの生活が出来るようになった。それを甘受した人々を責める資格は都会人には無い。

そこで出来た「電気」によって、不夜城のような明るい都会が生まれ、豊かさを享受出来たのだから。

これを「ごまめの歯ぎしり」と笑わば笑え。

原発からの「カネ」が無くなった福島県の財政は、ますます窮することは想像に難くない。
せめてもの頼みの国からの、一般的な地方交付税交付金も、赤字国債特例法の成立が期せない中、総じて、県民生活には多くの影響が出るだろう。

しかし、原発との縁切りをいろいろな形で実現し、表明していくことが、被災県としての、今の「正義」なのだと思う。
財政が苦しい県の中にあって、耐えるものは耐えないとならない。そういう生活を余儀なくさせられる県民。耐えることも、一つの「正義」なのではないか。

最近、世上、さまざまなところで「正義」が言われるようになった。福島の正義とは何か、都会の正義とは何か、日本にとっての正義とは何か。
人類にとって、ある意味、普遍的でありながら、その時代や環境によって変わるのも正義というものの概念。

我々が考えなくてはいけないのは、「今の時代の正義」。

マイケルサンデル教授の白熱教室のようにはいかないが、折に触れて「正義」というものについて考えて行かなければならないと思う。

正義とは何か。果てしなく難しい問題だとは思うけれど。

「変わること」。それも一つの正義だと考える・・・。