「3・11」からしばらく経っていた頃、郡山の児童詩誌「青い窓」の編集長がこんな事を言ってきた。
「3・11を子供たちがどう受け止めたのか、その詩を載せたいのですが、こっちからは書いてとは言いません。子供たちは書きたくなったら書く。それを待ちます。大人が“強要”しても、こどもたちは心を開かないだろうから」。
正確な言葉ではありませんが要旨そんな話でした。その頃、ある新聞社が被災地の子供たちに“書く”ことを求め、それを集めた本を出版していました。
被災地には様々な環境の子がいます。津波で親を亡くした子、原発事故で家族と離れ離れになった子。自分も、まさに津波に流されそうになった子。みんな「心の傷」を負っています。「心を閉ざしてしまった子」もいます。
友達や家族の前では、学校では、明るくふるまっていても、こころに大きな闇を抱えている子も。
学校の先生やボランティアの人達は、子供たちの「こころ」に向かい合うために、作文を書いて貰うことを試みている。子供たちが書いたものを見て、読んで、そこから伺えることを探し、支えになろうとしている。
「書く」時に子供たちはどう思っているのだろう。先生に読まれるということをわかっていて書くのか。自分を「表現」するだけに書くのか。
「読まれる」ということがわかっていれば、子供なりに「それなり」の書き方をするのではないだろうかとも。
亭主が小学校の時もそうだった。読んで採点する先生の“顔”をどっかに意識していた。それが発表される時、クラスの友達の前で読まれることがわかっているから、多少、それらも“意識”していた。・・・と思う。
プロの物書き、それを生業にしている人達は、その書いたものが読まれる事が前提。読まれて、本が買われてナンボの世界。
読まれるために読まれる工夫をするはず。それは書き方含め、内容に至るまで。
もちろん小説やフィクションと、ノンフィクションとは違うだろうが。
原発問題をめぐって数多くの本が出されている。読み手を意識して、その本が売れることを意図して、それが書かれている場合があるということ。
読み手を意識し、内容に「温度差」がないことを祈るのみだが。えてして「売れる」ことを念頭に置いたものがあるように思える。
読み手を意識しない「書きもの」っていうのがあるのか。読む人がいなければ、その書いたものは「無駄」ということか。
なんか「書きたい放題」「書き放題」ってのもあるよね。週刊誌はまさにそれだけど。
なんか「書きたい放題」「書き放題」ってのもあるよね。週刊誌はまさにそれだけど。
時々、頭を丸めて出直して来い。そう言いたくなるような本と出会う。それがベストセラーであっても。プロがアマ(尼)になった。そんなジョークがあってもいいのかとも。