報道によれば福島県は東京電力に課税していた「核燃料税」を今年限りで取りやめることにしたという。核燃料税を“徴収”する関係条例を県議会に提出しないということで。
核燃料税とは、原子炉に入れた新燃料の価格と重量に応じて課税するもの。福島県はそれを1977年に導入した。5年ごとの更新。今年の12月が直近の更新期限。ここ5年間で総額約264億円が見込まれていた。1年当たり53億円。
県に入ってこの税収は、立地地域に交付金として支払われていた。福島県以外でも、13の道県がこの条例を作り電力会社に課税している。
この条例による課税。そもそも、県の側から提起したものなのか、電力会社の方からの申し出だったのか、その経緯は知らないが。
すでに去年のあの事故後、この税金は入ってきていない。「新燃料」はないのだから。悪く言えば「実態の無い課税条例」と言えるかもしれないが。
しかし、2Fも含め、すべての原発の廃炉を求めている福島県にとっては、実際の税収があるかどうかはともかく、順を追って、「原発との決別」を形として示すことは、被災県として、当然の、一つの「正義」なのだと思う。
すでに福島県は電源三法の基ずく、電源立地交付金も今年度から辞退している。
その額は多分、130億円ともいわれている。
国や電力会社による、ありとあらゆる方策を考え出した、立地地域に対する「カネ」による懐柔。いつしか人々はそれに慣れてきた。人間、誰しも「慣れ」がある。それらの「カネ」によって福島県の財政は維持されてきたことも事実。
しかし、それを以て、「福島県」を「立地地域」をなじり、そしるのだけは絶対にヤメテ欲しい。
原発の歴史は、「貧しさ」の裏側の歴史でもある。時には訪れ、時にはテレビで見る都会の「豊か」な生活の何分の一かでも「追いつきたい」と思うことは当然なのだ。
今更言うまでもないが、原発は、あるいは、原発関連施設は、貧しき地域を標的にして作られる。作られた。それによって、たとえば施設が出来、生活管用がいくらか改善され、雇用がうまれ、ようやく都会並みの生活が出来るようになった。それを甘受した人々を責める資格は都会人には無い。
そこで出来た「電気」によって、不夜城のような明るい都会が生まれ、豊かさを享受出来たのだから。
これを「ごまめの歯ぎしり」と笑わば笑え。
原発からの「カネ」が無くなった福島県の財政は、ますます窮することは想像に難くない。
せめてもの頼みの国からの、一般的な地方交付税交付金も、赤字国債特例法の成立が期せない中、総じて、県民生活には多くの影響が出るだろう。
しかし、原発との縁切りをいろいろな形で実現し、表明していくことが、被災県としての、今の「正義」なのだと思う。
財政が苦しい県の中にあって、耐えるものは耐えないとならない。そういう生活を余儀なくさせられる県民。耐えることも、一つの「正義」なのではないか。
最近、世上、さまざまなところで「正義」が言われるようになった。福島の正義とは何か、都会の正義とは何か、日本にとっての正義とは何か。
人類にとって、ある意味、普遍的でありながら、その時代や環境によって変わるのも正義というものの概念。
我々が考えなくてはいけないのは、「今の時代の正義」。
マイケルサンデル教授の白熱教室のようにはいかないが、折に触れて「正義」というものについて考えて行かなければならないと思う。
正義とは何か。果てしなく難しい問題だとは思うけれど。
「変わること」。それも一つの正義だと考える・・・。
「変わること」。それも一つの正義だと考える・・・。