世論とは・・・。新聞やテレビが折に触れて行う「世論調査」なるものを指している場合が多々ある。もっぱら内閣支持率や、政党支持率がそのテーマ。
例えば今朝の朝日新聞。野田内閣を支持しますか。支持しませんか。支持しないが59%。支持するが18%。「支持率急落」と伝える。
両方合わせて77%。残りの23%はどうなっているのか。
二択。イエスかノー。どうも、世の中、二択で物を決める、推し量るといった空気が支配しているような。
もっとも、これは今に始まったことではない。調査ではないが、たとえば“思想”であっても、ま、そこまで大げさに言わなくても“考え方”であっても、やれ右だ、やれ左だと二択で、二項でくくってしまう。
むかし流行った巷の表現。あいつはドライだウエットだ。人の性格を二つに分けられるかよと反発したもの。
とばっちりのようだけど、血液型、A,B、O,AB。この4種でその人の判断基準を作る。ばかばかしいと思うけど。
亭主はもっか風邪をひいています。こじらせたような感じにまで。もちろん善意であろうことは間違いないのだろうけれど、「大丈夫ですか?」と聞かれると返答に窮する。大丈夫と答えれば「問題無し」ということになるし、「大丈夫じゃない」と答えたら、相手は二の句が継げなくなる。
日常会話の中の難しさ。
その風邪の頭で見ていた昨日のテレビ。日テレの番組。「バン記者」っていうのかな。だいたいこのタイトルがいただけない。なんだい、“業界用語”、しかも番犬じゃあるまいし・・・。それはさておき。
オリンピックの東京招致につての世論調査、街頭調査をやっていた。賛成、反対、どちらとでもない。その三択。
どちたでも無いがかなりあった。それを番組は問題視する。学者も登場。「イエス、ノーをはっきりさせない、自分の意見を持たないのが日本人の悪い癖、民族性だ」とかなんとか。
賛成が反対よりも多かった。どちらでもないの人に再度問う。大方が賛成に回る。多い方につくのが人の倣い・・・。
オリンピック招致に関しては、その人それぞれの立場によって違う。前提条件によっても違う。三択で意見を聞くと言うのは、あまりに安易。
いきなり結論。前から言っているが世論とはメディアによって作られ、それを世論として声高な“武器”にするというこの在り方。
原発に賛成か、反対か。その二択で世論調査やったらどうなるのだろう。答えに窮する人がかなりいるはず。その人の置かれた環境や立場によって。現実論と理想論の相克あり。
原発に関する世論調査にはメディアはいささか腰が引けている。数か月前に言われた調査。それは政府が行った「討論型世論調査」というもの。原発の2030年に向けた比率を問う物。0%、15%、20~25%の三択。0%が46%余り。趨勢は見えたが・・・。
二択、三択でくくる社会。イエスかノーを明言しない人が批判される時代。
二択ではあってもいいのじゃないか。どちらでもないが。三択ではあってもいいのじゃないか、どちらとも言えないという意思表示が。
どちらでもない。それは曖昧な意思表現だ。しかし、今言われている曖昧言語や、政治の曖昧さと、古くから日本の文化の根源である「曖昧さの美」とを混同すべきではないかと。古くからこの国の文化の一つであった和歌、短歌。そこには、あえて「あいまい」に表現することで、自分の意思や感情を伝えよとする独自性があると思うのだが。
丸谷才一文学の原点は「和歌」にあると本人も言っていた。
芥川龍之介の「羅生門」。その小説の最後は「下人の行方は誰もしらない」だった。犯人が明らかになっての大団円というサスペンスものとは違う。
その“余韻”が、読んだ人にいろいろ考えさせる。曖昧さの中に「考える」という“作業”が生まれてくると。
最後に現実を一つ。政党支持率と問う。支持政党無しが46%。どこの政党支持率より大い。これをメディアは新聞は無党派層と呼び、時には政治的無関心層と呼び、「切って捨てよう」とする傾向にある。
選択肢の少ない、設問の意味不明、その曖昧さ。それには曖昧さを持ってしか答えられれないと思うのだが。