2012年10月25日木曜日

「逃げる」か「立ち向かう」か、それが問題だ

昨日、原子力規制委員会が発表した全国16個所の原発事故による放射能拡散予測。テレビも新聞も大々的に報じる。

もし、東京電力福島第一原子力発電所と同じような事故が起きたら、半径30キロ圏外にもIAEAが決めた線量よりも高い放射能が拡散されると。

原発を抱える自治体は大慌て。(その風情)。困惑しながらそれらの長や関係者は言う。防災計画を見直さないととか、避難体制を整えないととか。

発表も含め、何を今更だ。と申し上げる。

一つの“前提条件”として、その時の風の方向というのが、大きな要因であり、その気象状況は誰にもわからない。わからないけど言いわけにはならない。

福島を見れば、発表も含め、それはもう去年からわかっていたこと。30キロ圏外はもとより、5キロ圏内の防災計画なるものは作っていたけど、それは何の役にも立たなかったということ、飯舘村を見れば、30キロ圏外に甚大な被害を及ぼすことはすでに現実として実証済み。

あえて言わせてもらえば、「福島」から何も学んでいなかった。大慌てして、計画見直しなんて言っている冶自体は。

福島をきちんと見ていれば、明日は我が身って思っていたはず。何を今更だとあらためて。

何万人、何十万人の人が避難する、逃げるってことが、どういう事態なのか。
受け入れ先なんてありはしない。風に乗って来るものを防げない。

いったん「事故」が起きれば“地獄”は半永久的に続く。

逃げ道を確保し、避難先を設ける。そんな「都市計画」ができるわけも無い。

彼らが言う「防災計画」とは「逃げる」こと。逃げ切れないのだ。そこには戻れないのだ。
立地県やその周辺自治体は、福島に学んでいれば、それらは自明の理だったはず。

多分、きょうは、あの地図に載った地域ではこの話題でもちきりだろう。企業は工場は移転するかどうかとか、別の拠点を構えるとかに躍起となるだろう。
家庭でも「どうするか」で、家族会議が開かれるかもしれない。
自治体のは早速、対応策のことで不信が生まれるかもしれない。

一番怖い「人間関係」の崩壊の糸口ともなりかねない。

仮定の事とはいえ、それは、福島が古くて、老朽化していたからという逃げ口上は許されない。

警察はどうする、自衛隊はどうする、消防はどうする・・・。自治体が対策を、万全の対策なんて出来るわけが無い。恐怖におののいた人達を避難させる、混乱させずに。無理だ。

「逃げること」だけを対策と考える。それは、ある種の「思考停止」だと。
逃げることよりも立ち向かうことを考えないと。と思う。
それは原発を止める。それ以外に無い。止めるために立ち向かう。止めさせるために立ち向かう。原発が無くても生きていける世の中を作る。

住民も自治体も、そっちに意識が向かないものかと。

官邸前で、鳴り物入りで騒ぐ「反原発集会」とは違う。自分たちの生活に関わること。

原発事故から避難する、逃げるという事が、“被曝”だけではなく、あらゆることで過酷で至難のことだと福島を凝視すればわかること。

320袋の米の中から100ベクレルをちょっと超えた一袋が見つかった。基準値をたった10ベクレル超えていたということで、その地域の米は当面出荷停止になる。

事故から1年7カ月も経った今でも、風評被害含め、60キロ、70キロ圏でも生活を脅かす問題になる。そういう風潮がまん延しているのが、今のこの国。
新聞論調は言う。「再稼働に大きな影響を及ぼす、再稼働は難しくなるだろう」と。これだって、何を今更だ。

逃げる対策に懸命になるより、原発が無くても暮らせる対策を考えることの方が大事なのじゃないかと。

逃げるか、立ち向かうか。それの選択もこの国の「正義」を考えることの一つだ。

もっとも、再稼働していなくても、停止していても過酷事故はあり得るということは十分承知の上で。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...