兼好法師、吉田兼好の代表作、随筆、徒然草。当店のキャッチコピーでもありますが。
正確には覚えていないのですが、子供の(中学かな)、古文という時間がありました。国語とは別に。そんな風に覚えています。
そこで、古文、古語を勉強しました。その文章、文体が綺麗であり、美しくもあり、著名な作品の冒頭の句は今でもはっきり覚えています。子供の頃覚えたことは忘れない・・・。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花のいろ、盛者必衰の理をあらわす」。だとか。
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水に非ず、澱みに浮かぶうたかたはかつ消え、かつ結びて久しくとどまること無し・・・」とか。
なにやら、あの時代を覆っていた無常感に魅かれたものです。
「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かいて、こころに浮かぶよしなしごとを、そこはかとなく書き継ぐれば、あやしゅうこそ物狂ほしけれ」。
徒然草の書きだし。この雰囲気が好きなのであり・・。
今、縦書きの文章は少なくなり、横書きばかりがまん延する世の中。一日中、硯にむかって、墨をすって、文章書いている人なんかいやしない。書道をたしなむ人ならともかく。
「別に退屈ではないのだけど、自分の存在を“確認”したくて、日暮らし、一日中、パソコンに向かいて、頭に浮かぶ、罵詈雑言を、まるで有ったことのように打ち続ければ、読む人の反応が楽しくて致し方ござらぬ」。
これって現代風解釈、口語訳ってあんばいにて。
「3・11」以降、徒然なる日々は無くなりました。それまでの“日常”は無くなりました。あおの日からの数々の映像、実際に出会った光景・・・。
徒然とは、辞書にはこうあります。することがなくて退屈なこと。また、そのさま。手持ちぶさた、と。
そういう日々があったらよかったと思う。いや、そうでない「3・11」に短い人生の中で遭遇したことの方がよかったとも思う。
それにしても、いわゆるこのネット社会。IT社会なるもの。この駄文とてパソコンを使って書いているのだから、文字を打っているのだから、それを“否定”するのは自己矛盾だと思うのだが。
IT,いやパソコンの歴史は、たかだか20年足らず。この「成長」ぶりにはただただ驚き、しかも、創世期はともかく、ハードもソフトも含め「ITバブル」という物が出現し、あっと言う間にすたれ・・・。
「進化」は凄い。Ipadからスマートフォンに至るまで。とにかく“便利”なものが、世の主流と相成りました。
亭主がパソコンに手を染めた時は、たとえばプルバイダなんてNTTとニフティーくらいしか無かった。今は・・・・。
ネットの功罪を言い出せばきりが無い。一冊本を書いても書ききれないくらい。
ネットに氾濫する日本語はもはや日本語の体をなしておらず。理解不能の言語がカタカナが飛び交い。
そして、便利であるがゆえに、人々はその便利さにおぼれる。楽しむ。何かを失っている。その一番は「考えること」。
考えることをやめた人達は、ひとえに「コピペ」の世界に走る・・・。たとえばテレビの料理番組。デジタル化によって、ネット連動。新聞記事もネット連動。レシピはネットで検索すれば即OK.料理はネットが作る。そこには昔ながらの「おふくろの味」は存在しない。
ネットで言辞を吐く人は、それこそ「一億総ジャーナリスト化」し。たとえばツイッター。その全てを否定するものではないが、「3・11」直後は、有効な情報収集ツールだった。ツイッターによって救われた人達もいる。
しばらくすると、そのツイッターは「嘘」「デマ」「誹謗」「中傷」の“場”として提供されてるような。現下はまさに「それ」。
ネットにちりばめられた他人の言辞を、いつか自分の考えと勘違いし、受け売りに走り。考えることをやめた人達は、そのまま思考停止になっている。
そして子供までもがスマフォに接し、スマフォで遊ぶ。子供の知能は高い。すぐに慣れる。簡単に知識を含めて、遊び方も含めて、それに染まる。考えない子供たちが出現する・・・。
飛躍するようだが、「電気」が無ければ「IT」は成り立たない。
もはや人類は、革命を起こそうとしている人達も含めて、「IT」の罠、呪縛から逃れられないようになった。
もし、ばかばかしい話だけど、吉田兼好が今の世に存在したなら、その随筆の冒頭をなんと書きだしただろうか。
清少納言や鴨長明は、その「無常観」をどう表現したのだろうか。生きている世が今も変わらず「無常」であることに変わりはないはずだから。