消費者事故調査委員会なるものが発足したという。身の回りに起きる製品事故や食品被害などの原因を究明する機関だという。原発事故調は終わった。今度は消費者か。どうもこの国がやっていることの意味がワカラナイ。
「消費」。この言葉をどう解釈するか、この言葉を使われた時に、それをどう理解するか、どう咀嚼するか。どんなイメージを持つか。どういう行動を指すのか。難しい言葉だと思う。
試しに広辞苑をひく。「費やしてなくすること。つかい尽くすこと」とある。そして経済用語としては「欲望の直接・間接の充足のために財・サービスを消耗する行為。生産と表裏の関係を為す経済現象」と書かれている。
上げ潮路線とか財政健全化路線かはともかく、政治家は、そのほとんどが言う。経済政策を問われると。
「需要の喚起です。消費拡大です。お金を回らせることです」と。
たびたびの引用のようで申し訳ないが、3・11後の“フクシマ”を扱ったドキュメンタリー映画、“無人地帯”で、その製作者は「消費」という表現を一つのキーワードとして使っている。
前後の文脈を省くがゆえに誤解を与えなければと思いつつ、その部分だけを抜粋。
「破壊の映像は常に消化が難しい。(略)破壊の映像は刺激物となり、麻薬のように消費される。現代、私たちはあらゆる破壊の映像の依存症かもしれない」。
「破壊の映像は悲惨の表象として消費された」。
破壊された映像の中に字幕で伝えられる「消費」という言葉。どう理解すべきか読み解くべきか、いささか戸惑った。考え抜いた挙句、この言葉が、誰でも使うこの言葉が、「現代」を読み解く上での意味のある言葉だと気づく・・・。
この国は生産者優先の社会だった。これからは消費者優先の社会にしなければならない。いや、そうなる。以前にも書いたが、20年以上前に、今、大阪市の「顧問」をしている堺屋太一が講演でよく言っていた。
都会では消費者団体が作られ、やがて国の機関として消費者庁なるものも作られて担当大臣も生まれた。消費者保護という目的で。消費者の安全や安心を“担保”する組織として。消費者目線に立った国の省庁として。
農水省や経産省は生産者側の省庁だということか。
3・11後、特に福島県にとって、突き付けられた問題。図式。
生産者と消費者という“対立”の構図。放射能の汚染による生産者は加害者であり、消費者は被害者であるという構図。
そして、それは時が経ってから、生産者が実は被害者であったという認識にいささか変わって来たという風潮。
福島の米、野菜、果物、水産物。それらに携わる人たちは生産者として枠にはめられた。そのことへの疑問は何回も書いたが・・・。
米農家でも米を作るときには、たとえば肥料を買う。たとえばトラクターを買う。その「買う」という行為をしている時は消費者なのに。
消費者と言われる都会の人も、物を生産する企業に従事している。その限りにおいては生産者なのだと思うけれど。
物が売れる。売れるから作られる。生産と消費は、あたかもメビウスの輪の様に連関しているもののはずだが。
どちらかを「善」、どちらかを「悪」とするような風潮・・・。生産者も時として消費者であり、消費者も時として生産者であるということ。
者という字を取った生産、消費という言葉にすると、その趣をいささか異にしていくのか。
数日前目にした新聞の1ページ。政治を話そうとされた欄。哲学者が政治を読み解いている一文。見出し。「経済成長の時代、全ては暇つぶし、政治も消費された」。本文からその学者の見解の一部を引用。
60年代以降、日本だけは経済が右肩上がりで社会システムも安定していた。その中で怪物的な消費社会を作りだし、あらゆるものを消費の対象にした。政治もその一つになった。消費社会というのは物ではなく、物に付与されたイメージや記号を売るのです。イメージや記号だから、消費は実感を伴わずに行われ、満足も得られない。政治もその中に巻き込まれてしまう。
うまいこと言うね。このお兄ちゃんって感じかな。要は「無駄使い」ってことなのかなと。「使い捨て」ってことなのかなと。
そして、きのうの天声人語。二作あったのではないかという「モナリザ」の絵のことに触れて。▼思えば、これほど「消費」されてきた絵もなかろう。まねされ、盗まれ・・・。
破壊の映像も消費、政治も消費、絵画も消費。
たたみかけられるように襲ってくる「消費」という言葉に、亭主の“脳味噌”は使い尽くされている。