2012年10月30日火曜日

「明日」と「今日」と

野田首相の所信表明演説の全文をくまなく読んだ。「明日」という字がいたる所に散りばめられている演説。
「名文」である。と同時に「迷文」であり、決して「明文」とは言えない。という印象。

「明日への責任」を彼は説く。明日とはいつのことを指すのか。十数時間後の10月31日と言う明日なのか。遠い未来を総称しての明日なのか。

福島について、被災地についての言及に目が行く。ほとんど何も語れていないに等しい。福島の再生無くして日本の再生無し。もうずいぶん前に聞いたセリフ。あの演説の時から、「明日」は何回も来ている。

福島にしても被災地にとって語ってほしいのは「今」なのだ。「今日」を語ってほしい。何もしない今日は、何もしない明日への無機質なレールに過ぎない。レールに列車を乗せるのが今日だということ。

首相の国会での演説。施政方針演説にしても、所信表明演説にしても、おおまかな論旨は首相が言うかもしれない。しかし、実際に原稿を書くのは、秘書官であり、今なら補佐官と称する人達なのだろう。出来あがったものに手を入れることぐらいは有ったとしても。

そして、演説原稿は、事前に印刷されたものがマスコミには配られ、野党の議員のところにも配られている。本会議場での演説は、そういう意味では儀式。

例えば朝日新聞は官邸記者にツイッターでつぶやかせている。誰が誰と打ち打ち合わせながらその原稿を書いたのか。それが知りたい情報の一つなんだけど。
そんな取材はされていない。そんなつぶやきは登場しない。

事前に配られているから予定稿として、論評含め、多くの原稿が載る。野党もコメントを用意出来る。テレビは編集しやすいように事前にどこを放送するかが出来あがっている。

内幕話ししても意味のないことだけど、それが実体だということ。

野党は決まりきったようなコメントを出す。安倍総裁は言う。「リアリティーの無い演説だ」と。ならばあなたの言っていることにリアリティーがあるのか。憲法改正。およそリアリティーの無い議論だ。3分の二の国会議員による発意が無ければ出来ないことを。それこそ「遠い明日のこと」では無いのか。

立法府としての国会は所信表明演説を受けて、それに対する各党の代表質問を行うことになっている。それは「法」で決められた事。
参議院では“憲政史上初”とマスコミが大々的に、大時代的表現でそれを言うが、問責決議を受けた総理大臣の演説は拒否するとした。
それは即ち、代表質問も無いということになる。明らかに法の取り決めに違反している。
安倍は「審議拒否はしない」と言いながら、参院は御しきれなかった。

言論の府である国会、その一翼を担う参議院の存在意義が問われるのは当たり前。論破があってこその言論の府。

参議院議員に支払われる歳費は、まさに何の対価でもない無駄カネ。予算委員会には出ると言うことらしいが。

話を戻す。明日でなく今日を語れ。今を語れと。「明日」という言葉に言及した時、咄嗟に返したくなるのは、君達に明日は無いという言葉。だってそうだろう。被災地の人達は思っている。いくら希望という言葉を投げかけられても。「俺たちに明日はない」と。映画のタイトルでは無い。現実として。

人間は、昨日、今日、明日という三つの時間軸で動いている。言い換えれば、過去、現在、未来という時間軸の概念。
過去を語るべき時に過去を語らず、今を語るべき時に今を語らず、語れず、明日を語るべきでない時に明日を語っている今の政治・・・。

名文が迷文にしか思えない所以。

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